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新緑の絹の道(日本のシルクロード)

 関東・東北から八王子に集められた生糸が横浜へ向けて運ばれたといわれる歴史の古いみちがある。日本のシルクロードといわれる「絹の道」を歩く。八王子から柚木街道を鑓水に向かい、絹の道資料館入り口の信号を右にまがり、「御殿橋」で大栗川を渡る。橋の下を流れる大栗川は鑓水の丘陵を水源に柚木街道、野猿街道に沿って東流し、大田川や乞田川を吸収して関戸橋の下流約400m付近で多摩川に注ぐ全長約15.5kmの川である。

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 御殿橋を後にして奥へ進むと、春の花咲くのどかな、山と田畑の谷戸の風景が広がってくる。右手に大きな農家の門構えを過ぎたところに、黒ずんだ板塀で囲まれた古風な建物が目に入る。「絹の道資料館」である。鑓水の村名主で豪商として知られる八木下要右衛門の屋敷跡に1990年に建てられたという。館内には鑓水の歴史がさまざまな展示物とともにわかりやすく展示されている。また、発掘調査によって石積水路や母屋の礎石などが一部野外展示されている。2009_04_15__1342_3

 1895年鎖国政策をとっていた日本が開国すると、欧米との貿易が始まったが、日本からの輸出品のうち最も主要な商品が生糸だった。八王子近郊や埼玉、群馬、山梨、長野といった地域の養蚕農家から八王子宿に集められた生糸がこの鑓水を通って横浜に運ばれた。その発展に大きく貢献したのが、ここ鑓水地方の商人たちであった。2009_04_15__1336_3

 

 そして生糸の流通に関して才覚を発揮して富を築いた。だが1908年(明治41年)の横浜鉄道の開通で、新たな商業の流れについていけず殆どの商家が没落してしまった。絹の道も、鑓水商人達の栄華もわずか50年間という短い年月で終わってしまったである。資料館には、その当時の栄華を極めた鑓水商人の栄枯盛衰の歴史が展示されている。2009_04_15__1333_3

 

 記念館を出て右手に少しいくと鑓水三叉路に出る。右に急に登る坂道があり左手に秋葉大権現の石塔一基、庚申塔一基、百八十八ヶ所供養塔一基、それに道路改修記念塔一基が肩を寄せ合うようにたたずんでいる。この坂道が「絹の道」入り口である。民家があるところまでは急な坂道であるが舗装されている。モクレンの花、ヤマブキ、ヤエザクラなどを見ながら進む。2009_04_15__1402_3

 

 やがて未舗装の道になり、静寂の中に小鳥の声がすがすがしい。「絹の道」とは昭和二十年代末に地域の研究者によって名付けられ、1972年には御殿橋から大塚山公園に至る1.3km区間が「絹の道」として八王子市の史跡に指定されている。2009_04_15__1352_3  

  道幅は2~3mと狭くなり、ハーフパイプのように丸くなって緩やかに蛇行している。まわりの木々が覆い被さるように茂り、路面は土と石が剥き出しでごろごろしている。落ち葉の湿気で足元が悪い。大雨が降ると川のように流れるのではないかと思う。空を見上げて新緑を楽しみながら街道跡を歩く。2009_04_15__1347_4

 

 さらに進むと、左手にこぎれいな山小屋風の建物が見える。西洋鍛冶と書いてある。手作りの作品が並べられていた。ちょっと場違いな感じもするが覗いてみる。奥で槌打つ姿が見えたがここの主人らしい。エクステリア門扉、ペーパーナイフ、飾り物など小物が置いてある。2009_04_15__1394_3 2009_04_15__1393_3 新緑に光がまぶしい街道跡をしばらく進むと、「絹の道」石碑とその脇に、道了堂の寺院跡へと向かう参道の石段がある。石段を踏みしめて上る。そこは鬱蒼とした木々が茂り、廻りの大木は新芽が出てやわらかい光にきれいに映える。石燈篭、石碑、石仏像などがあり、こんもりとした静寂である。今は大塚山公園として整備されている。2009_04_15__1387_3

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2009_04_15__1370_3 説明によると『道了堂は、1875年に当時豪商となっていた鑓水の生糸商人たちによって、東京浅草の花川戸から移され、鑓水にある永泉寺の別院として建立された。当時は地域の人々の信仰を集め、大変な賑わいだったというが、今はその華やかだった当時の面影はまったく見られず、ただひっそりと横たわり忘れ去られた遺跡のように静けさだけに包まれている。』とある。2009_04_15__1377_3

『絹の道』道碑には、台石に繭と糸巻きと桑の葉が掘られている。

 絹の道の石碑を過ぎ、大塚山公園を回り込むように進むと展望が開け、八王子市街地が一望できる。東京工科大学から八王子駅方面が春霞に煙るいい眺めである。目の前の150段の石段を降りると片倉駅への近道である。電波塔の脇にはハシドイの木の花がきれいに咲いている。2009_04_15__1380_4

 

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 帰りも同じ道を引き返した。昔、荷物を担ぎ、生糸を馬の背に載せて横浜まで運んだ人々の苦労とその時代を踏みしめた街道であることを思い馳せながら新緑の葉の下を歩く。このあたりはまだのどかな里山風景が残る。新緑の「絹の道」ウオーキングは15,500歩であった。2009_04_15__1409_2 

 資料館の鑓水商人の系譜によると、鑓水で巨万の富を築いた生糸商人には、大塚五郎吉、大塚徳左衛門、八木下要右衛門、平本平兵衛等がいる。このうち大塚五郎吉以外はすべて三代目で身代をつぶして没落し、悲惨な終末を迎えている。

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 現代の企業も同じことが言える。創業者は苦労して起業し、二代目はそれを見ているので何とか維持拡大する。三代目は出来上がったところに入ってくるので力量によってはうまくいかなるケースがある。企業30年説では、創業して30年間で残るのは約30%といわれている。

 昨今「企業のコンプライアンス」の問題がクローズアップされているが、鑓水の豪商も、殺傷事件を起こす、花火の不始末での火災、密貿易の発覚等、まさに今現在言われている「コンプライアンス」の問題なのではないだろうか。

 

 

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