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2009年9月

昭和記念公園   コスモス畑を歩く

 休日の昼下がり、あまり天気がいいので秋の花でも見ようと昭和記念公園に出かけることにした。多摩センターからモノレールに乗りおよそ30分ぐらい。途中多摩動物公園を眼下に見下ろし、高幡不動尊の五十の塔を左に見て、淺川、多摩川、甲州街道を上空から横切り立川の北口で降りる。

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 新しいススキの穂が西日を受けて風にそよいでいる。昭和天皇記念館の前を通り、公園入り口に向かう。手入れのされた芝生がきれいだ。

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  入り口を入ると、緑濃い106本の銀杏並木が噴水の上がる池の周りに続いている。 11月下旬、もう少しすればぎんなん拾いでにぎわうだろうところである。まだイチョウの葉も色づいていないので、ぎんなん特有のあの臭いはないので快適に歩ける。

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              ぎんなんの実

  歩道の脇に小さな白い可憐な花、タマスダレである。なぜかこの花がヒガンバナ科であることにイメージがわかないなと考えながらコスモスの丘へと足を運ぶ。途中遠くに 「原っぱ西の花畑」 を見るがまだ花は咲いていない。10月下旬ごろ、70万本が5,800㎡に咲く、ここは黄色のコスモス、イエローキャンバスの生育地である。

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 タマスダレ  花言葉:期待、潔白な愛

  家族連れが遊ぶ緑の芝生の広場を見ながら歩いていると、ハッピーリングが満開だという 「原っぱ東花畑」 に出る。クレオメの花、白と赤がコスモスとバランスよく咲いている。

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      クレオメ   花言葉:あなたの姿に酔う

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  背の高い紫の花が、きらめく太陽にまぶしく光っている。シオンの花である。可憐な薄紫の色の小花をたくさんつけ、秋を伝える花として古くから庭に植えられたりする。名は漢名の紫苑を音読みしたものである。花言葉は”ごきげんよう”。

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            シオン

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  コスモスの花言葉は、”乙女の真心” 原産地はメキシコでスペイン人がヨーロッパに持ち帰り、それが日本に渡ってきたらしい。ここには全体で約550万本のコスモスがあるといわれている。

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           ハッピーリング

 コスモスの丘には、いろいろな種類のコスモスが咲いているが、まだ少し早い、三~五分咲きというところである。旬は10月中旬で約400万本が16,500㎡の丘に咲く。だが今日は、天気が良いせいか人の出はおおいようである。コスモスの花は太陽の方向を向いているので写真写りとしては非常に撮り易いが変化がないのが残念である。

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  ドワーフセンセーションキャンパス

  コスモスの丘に行く途中に、秋の七草が一同に並んでいるところがある。花は6月から10月に咲くので同時に咲くところは見られないが全部の草がそろっている。因みに秋の七草はハギ、オバナ(ススキ)、キキョウ、ナデシコ、フジバカマ、オミナエシ、クズである。

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             秋の七草園

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        ディープレッドキャンバス

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          クリムソンキャンバス

  コスモス祭りは11月3日までやっている。なお10月4日(日)、10月18日(日)は無料入園日になっている。年々コスモスの丘は整備されきれいな花がたくさん咲き乱れるようになってきている。秋桜と書いてコスモスと読ませる日本人の感性が心憎い。

 「一生青春」  福島の地酒を飲む 

  休日の早朝、ベランダから外を眺めていると部屋の前に広がる木の枝に小鳥の集団がやってきた。よくみるとエナガではないか、もうそんな時期になったんだと改めて思った。

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  エナガは漢字名では ”柄長”、この柄は柄杓(ひしゃく)の柄のことである。エナガはかわいい小鳥で雌雄はほぼ同じ大きさ、同じ色をしている。体の大きさの割りに尾羽がかなり長い。この長い尾羽を柄杓の柄に見立てた名前である。

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  結構忙しく動くのでなかなかカメラに収まってくれない。メジロも一緒に来たようだったが、移動が早い。

  小鳥を追いかけていると、朝から玄関のチャイムが鳴り宅急便が届いた。中を見てみるとお酒である。学生時代の友達が連休に福島の大内宿に行ってきたらしい、そこで見つけた酒を送ってくれた。梱包を明けてみると 「一生青春」 という大吟醸酒である。

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  ネーミングの響きがいいので気に入った。短い手紙が添えられて 「君の生き様のような酒があったので送ります、一献味わってください」 とある。ありがたいことで感謝感激、うれしい限りである。朝から飲むわけにいかないので夜の楽しみに今夜の献立を考える。

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  「今心の豊かさの時代。いつまでも、いくつになっても青春の心を持ち続ける人生を応援する味わい深い酒」  と書いてある。辛口で美味しい酒である。

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酒を飲みながら、サミエル・ウルマンの 「青春」 という詩を思い出した。(岡田義夫訳)

  

  『青春とは、人生のある期間を言うのではなく心の様相を言うのだ。

 優れた創造力、逞しき意志、炎ゆる情熱、怯懦を却ける勇猛心、安易を振り捨てる冒険心、こういう様相を青春と言うのだ。

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        お祭りのパフォーマンス

  年を重ねただけで人は老いない。理想を失うときに初めて老いがくる。歳月は皮膚のしわを増やすが情熱を失うときに精神はしぼむ。

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             若者バンド

  苦悶や、狐疑、不安、恐怖、失望、こういうものこそ恰も長年月の如く人を老いさせ、精気ある魂をも芥に帰せしめてしまう。

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           中学生のバトントワラー

  年は七十であろうと十六であろうと、その胸中に抱きえるものは何か。曰く「驚異への愛慕心」空にひらめく星晨、その輝きにも似たる事物や思想の対する欽迎、事に處する剛毅な挑戦、、小児の如く求めて止まぬ探求心、人生への歓喜と興味。

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  人は信念と共に若く、人は自信と共に若く、希望ある限り若く、疑惑と共に老ゆる恐怖と共に老ゆる、失望と共に老い朽ちる大地より、神より、人より、美と喜悦、勇気と壮大、偉力と霊感を受ける限り人の若さは失われない。

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              親父 バンド

  これらの霊感が絶え、悲歎の白雪が人の心の奥までも蔽いつくし、皮肉の厚氷がこれを固くとざすに至れば、この時にこそ人は全くに老いて神の憐れみを乞う他はなくなる。』

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      はなみずきの実

  難しい訳であるが要は、青春とは心の若さだ、二十歳であろうが人は老いる、八十歳でも人は青春の情熱を持つことができると言っているのだと理解した。

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  近くの商店街でお祭りをやっていたので覗いてみることにした。若者たち、昔若者たち、子供たちが元気に演技をしたり歌を歌ったり楽しそうである。今流行の”親父バンド”も元気であった。話題と曲目がよく理解できる。曲は「若者たち」、「戦争を知らない子供たち」、「ブルーシャトー」などなど・・・話題は新宿西口のフォークゲリラのやり取り、懐かしい限りであるが、皆一生懸命に青春してるな--と元気をもらう。

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              秋桜(コスモス)  

  我々学生時代の仲間も、昭和生まれであるので昭和100年まで元気で居ようと酒を酌み交わしている。平成も21年になるので昭和で数えると85年になる。いづれにしても口も体も頭も目も元気で達者でいることが前提になる。今日も一万歩ウォーキング頑張ろう。

武相荘  旧白洲邸を訪ねる

  連休にNHKでドラマスペシャルとして”白洲次郎”を放映していた。第二次世界大戦後の日本の復興と日本国憲法の成立に深くかかわった人物である。 多摩丘陵にその旧白洲邸 「武相荘」(ぶあいそう)がある。

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 入り口で1000円を払ってパンフレットをもらう。 ”武相荘オープンにあたって” というパンフレットにはこう説明がある。

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 『父・白洲次郎は、昭和十八年(1943)鶴川に引越してきました当時より、住まいに「武相荘」と名付け悦にいっておりました。武相荘とは、武蔵と相模の境にあるこの地にちなんで、また、彼独特の一捻りしたいという気持ちから無愛想をかけて名付けたようです。』

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  テレビドラマの影響か、連休の最後の日をたのしんでいるのか、入場者が多く混雑している。入り口の休憩所には白洲次郎の若き好青年時代の写真が等身大で飾ってあり、彼の愛用した車、イギリスのベントレイ3リッターの写真も窓の上におかれ、下の畑をみおろせるようになっている。日本で最初にジーンズをはいた男といわれている。写真を見ても「かっこいい」というかんじである。いわゆる「Cool!」というところでしょうか。

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        愛車 ベントレー3000CC

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  入り口の門のところに臼の郵便受けがあり、入ると大きな木の枝が目立つ、茅葺の母屋のぐし(屋根の三角の部分)のところに寿の文字が見える。庭先には、鈴鹿峠という石塔があり閑静な散策路になっている。大きな孟宗竹の竹林が情緒を添える。石段を踏みしめ歩いていると小さな石像が草葉のかげからいくつか見える。

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  母屋の中に入ると土間があり、囲炉裏の間にはお膳が並べられ、当事の生活がそのまま再現されている。奥の書斎は掘りコタツになっていて、当事の書籍がうずたかく並べられ、机の上にはソニーのトランジスターテレビだろうか、小さい画面のテレビが懐かしい姿で置かれている。

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  第一ギャラリーには、ゴルフが好きだった当事の写真とゴルフの心得が書かれてある。ゴルフウエアーには ”Play Fast” と胸のところにかかれているのが印象的だ。今ではあまり言われなくなったが、我々がゴルフを習ったときは常にこの言葉をいわれたものだ。初心者の頃は打てばクラブを2,3本持って、走ってボールを捜すのが常識であった。プレイを教わるとともにマナーも自然に覚えさせられていたような気がする。

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  「野人」と「韋駄天」の世紀のカップルと 二人の紹介文がある。

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  『白洲次郎(1902~1985) 兵庫県生まれ、若くしてイギリスに留学、ケンブリッジに学ぶ、第二次世界大戦に当たっては、参戦当初より日本の敗戦を見抜き鶴川に移住、農業に従事する。戦後、吉田茂に請われてGHQとの折衝に当たるが、GHQ側の印象は  「従順ならざる唯一の日本人」。

 その人となりを神戸一中の同級・今日出海は「野人」と評している。日本国憲法の成立に深く関わり、政界いりを求める声も強かったが、生涯在野を貫き、いくつもの会社の経営に携わる。

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  晩年までポルシェを乗り回し、軽井沢ゴルフ倶楽部理事長を務めた。「自分の信じた『原則(プリンシプル)』には忠実」で「誠にプリンシプル、プリンシプルと毎日うるさいことであった」と正子夫人。遺言は 「葬式無用、戒名無用」。 まさに自分の信条(プリンシプル)を貫いた83年だった。』と書かれている。

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 『また、白洲正子(1910~1998)樺山伯爵家の次女として、東京に生まれる。父方の祖父・樺山資紀は薩摩出身の軍人・政治家。正子も、自分に薩摩人の血が流れているのを強く感じていたという。

  幼児より能に親しみ、14歳で女性として初めて能の舞台に立つ。その後アメリカのハートリッジ・スクールに留学。帰国後まもなく次郎と結婚する。互いに「一目惚れ」だった。戦後は早くより小林秀雄、青山二郎らと親交を結び、文学、骨董の世界に踏み込む。

 銀座に染織工芸の店「こうげい」を営み、往復4時間の道を毎日通っていた。この店からは田島隆夫、古澤万千子ら多くの作家が育つ。青山に「韋駄天お正」と命名されるほどの行動派で、自分の目で見、足を運んで執筆する姿勢は、終生変わらなかった。』と紹介されている。

 ドラマのなかで正子の言う、「ジロウは二人いるんです」 という言葉が印象的であった。

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  母屋をでたところにお茶処があり、お抹茶・コーヒーのセットが800円である。コーヒーとケーキのセットをゆっくりと味わう。武相荘洋風弁当3150円(要予約)もあり、豪華でなかなか美味しそうである。

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 出口のショップの二階には、ビデオサロンがあり、NHKの”そのとき時代は動いた”のビデオが放映されており白洲二郎の生き様がよくわかる。敗戦国日本の戦後復興の建て役者としての活躍ぶりが表現されている。

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 官僚の不甲斐なさに激怒して、占領国アメリカのGHQに対して敢然と立ち向かう姿は「戦争には負けたけれども、奴隷になったのではない」。という言葉によくあらわれている。

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  敗戦後、貿易立国を唱えかつての通産省を作り、七年めのサンフランシスコ講和条約の締結時の演説は、GHQ作成の英文を破棄して日本語で巻紙に書き改めて、吉田茂が日本語で演説した。.この決断と判断、実行力ががなかったら、今の日本の繁栄は無かったかも知れないと思う。被占領国で自分の国の言葉「日本語」をしっかり守っている原点はこの辺にあったのかと知ることができた。

  ドラマの最後に、吉田邸を去る白洲次郎の後ろ姿に向かって  「ありがとう」 という吉田茂の言葉が印象に残る。

多摩川MTBライディング

 朝晩の涼しさはすっかり秋になってきた。久々にMTBで多摩川の土手を走ってみる。大栗川の合流点から上流へとペダルを踏む、川原にはサギの姿が目立つ。

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 四谷大橋の下流にカワウとサギの大群が朝食中のようである。ざっとみて白いのと黒いのを合わせて200羽ぐらいいる。

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 黒いのはカワウ、全長82cm特徴は大型の水辺の鳥、全身がほぼ黒色で背中や翼上面に茶褐色のうろこ模様がある。留鳥で本州と九州で繁殖、冬季は広く分布する。

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  集団で樹上に巣をつくり繁殖するが繁殖地は局地的である。近年これまで見られなかった地方の川や大きな池に群れで飛来するのが観察されるようになった。その結果、サギ類同様に、集団営巣地(コロニー)での糞害の問題、河川での漁業被害の問題などが生じてきている。

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  ここ多摩川でも、五月に鮎の稚魚を放流したが瞬く間に、カワウ、サギの餌になってしまい鮎つりの人を嘆かせているようである。

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  この集団の中の白いのはサギである。サギもダイサギ、チュウサギ、コサギがあり見分けにくい。ダイサギは全長90cm、全身白色の大型サギ、嘴・頸・足ともに長く大きい、グワー、ゴアーと鳴く、本州以南で夏、冬とも普通に観察できる。

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  チュウサギは全長68.5cm、全身白色の中型のサギ、体はコサギより大きいが嘴は短い、夏鳥として本州以南に渡来し繁殖する。

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  コサギは全長61cm、シラサギの仲間では最小あしゆびが黄色い、嘴は長めで一年中黒い、本州以南に分布、水田、池、川、河口などで見られる。魚や蛙を待ち伏せたり、追いかけたり、あるいはあしゆびを水中で震わせて隠れ家から追い出したりして捕食する。

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 サギの仲間には、ほかにアオサギ、ゴイサギなどもいるが、アオサギは青いのでわかり易い、ゴイサギは頸が短く目は赤で夜行性なので区別がつきやすい。

 コサギは足指が黄色なのでわかりやすいが、見分けにくいのがダイサギとチュウサギである。夏羽のときは比較的簡単で、目先が深い緑色なのがダイサギ、めさきが黄色なのがチュウサギである。

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 冬羽のときはどちらも黄色のくちばしに黄色の目先でちょっと見ただけではわかりずらい。見分け方は、嘴の切れ込みが目の下の後ろまで続いているのがダイサギ、目の後ろ縁で止まっているのがチュウサギである。

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  なかなか、遠くから見ているのでは見分け方は難しいのが現状である。それにしても、黒、白、大、中、小とたくさんいるものである。

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  最近のここにいるカワウは、この多摩川にかかる電線をねぐらとして夜を明かし、朝早くから京王線鉄橋下辺りから、だんだんと上流や支流の淺川の方へ上っていくようである。

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 秋の気配と共に、渡りの鳥たちが賑わいを見せ始めている。今年も珍しい鳥たちにあえることを楽しみに鳥見を続けよう。

時の栖(すみか)    風車祭り

  シルバーウイークのニュースは連日高速道路の渋滞を伝えている。奈良までお彼岸のお墓参りに行く予定をしていたが、ホテルもとれないので延期することにした。

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  それでも時間を持てあますので、家を10時ごろとやや遅く出て1000円効果で沼津港まで寿司を食べに行こうということになった。前回は有名な「寿司文」に行ったので今回は現地で美味しそうなところを探すことにして出発。

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  道路はスムーズに進み、ちょうど昼ごろに沼津港に着いた。やはり沼津港市場方面は渋滞、駐車場に入る車が並んでいる。裏道を抜けて海岸堤防沿いに車を止める。

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  寿司屋は混雑していたが少し待つと席に座れた、地魚にぎり・・2100円、大トロにぎり半額となかなか価値がある。さすがに金目鯛は入っていなかったが美味しい。名物干物を買って満足して帰る。

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  御殿場地ビール「時の栖(すみか)」に寄る。ちょうど9月19日から11月1日まで「風車祭り」をやっている。風車ときいてあまりたいしたことは無いだろうと高をくくって中に入ると、どこもかしこも風車、それも色々な種類の風車が飾られている。風が吹くときれいに廻る。

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  ビール園の前では、昔懐かしいビートルズの生演奏、しばし聞き入る。知っている曲はなぜか懐かしくいつのまにか手拍子を打っている。若者達はビール片手に踊りだす者もいる。楽しい雰囲気である。

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  「愛の鐘」のある高台にむかって歩いていると歩道の両側、いたるところに風車がある、太陽の逆光に風車の羽根がきれいに映える。くるくると良く廻るもの、牛、蛙、はちなど動物のキャラクターがかわいい。花びらの風車も風に吹かれてきれいに廻っている。全部が一斉に廻ったらさぞかし壮観だろうと思う。

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  高台の下にドッグハウスのようなホテルがある、そのホテルも風車できれいにかざられて、異国情緒を感じる雰囲気である。風車の数は全部で60、000本といわれている。園内の売店では同じ風車を販売しているので子供たちが喜んで手にしている。

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  「愛の鐘」の広場の風車は見事である。遠く足柄の山をバックに風車の羽が並ぶ風景はまた楽しい眺めである。

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 この「愛の鐘」については・・・・ 『このBellは、自然災害で被害を受けた方々への鎮魂と、ご遺族の方々の心を慰め、希望とエネルギーを与えるために鋳造されました。 仰ぎ見る富士山と、雄大な自然の中で、時に荒れ狂う自然への畏怖と調和の大切さを知り、ここに集う皆様と共に考えてみようと思います。 失意の時には悲しく、幸福な時には楽しく聞こえるBellの音は、心の中に新たな愛を育むはずです。』 との説明がある。

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  この鐘は2006年6月23日、オランダで造られ、重さ37.5トン、直径3.824m,高さ3.724mあり現存するBellでは世界最大といわれている。

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  鐘の背景に見える富士山の威容と共に、風車のこの風景もまた心和ませるものがある。思いつきでのドライブもまた新たな発見があるものである。1000円高速で昼食代がまかなえ良い風景が見ることができた。だが、こういうドライブが増えると、CO2 25%削減もかなりの政策が出てこないと実現は難しいのではないだろうか、新政権の政策におおいに期待する。

新宿御苑を歩く

 勤め先の近くに新宿御苑があるのにゆっくりと歩いたことが無い。連休の初日は道路も混んでいるようなので近場で楽しむことにする。 因みに最寄の駅は地下鉄「新宿御苑前駅」である。大木戸門から木戸銭200円也で入る。

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 新宿御苑は、徳川家康の家臣、内藤氏の江戸屋敷の一部がそのルーツといわれている。明治に入り、農事試験場を経て、明治39年(1906)の皇室の庭園となり、戦後昭和24年(1949)に国民公園として一般に開放された。

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 広さは58.3ha(約18万坪)、周囲3.5kmの園内には、フランス式整形庭園、イギリス風景式庭園、そして日本庭園が巧みにデザインされ、明治を代表する近代西洋庭園といわれている。

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  新宿御苑のルーツ・・・・新宿御苑の敷地は、天正18年(1590)に豊臣秀吉から関八州を与えられた徳川家康が江戸城に入場した際、譜代の家臣であった内藤清成に授けた江戸屋敷の一部である。

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  東は四谷、西は代々木、南は千駄ヶ谷、北は大久保に及ぶ広大な土地で、後の甲州街道や青梅街道になる江戸から西に伸びる街道と、鎌倉街道が交差する要所であったことから、この一帯の警護など軍事的な目的で家康が信頼できる家臣に与えたとされている。

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  内藤氏七代清牧は元禄4年(1691)に三万三千石の信州高遠城主となった。内藤家の屋敷地はその石高に比べてあまりににも過分であったため、その後かなりの部分を幕府に返上したが、明治5年にはまだ十万坪以上が残されていた。

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 新宿御苑は、この内藤家の九万五千坪余と、当時すでに私有地化していたものの、元は内藤家の屋敷地であった隣接地を合わせた十七万八千坪(58.3ha)の土地に誕生することとなった。

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  また、現在大木戸門を入った突き当たりにある玉藻池を中心とする日本庭園は、安永元年(1772)に玉川上水の余水を利用して完成した内藤家の庭園 「玉川園」 の一部である。と説明があった。 多摩川の羽村取水堰からの玉川上水は笹塚あたりから地下にもぐり、この大木戸門まで続いているのである。

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  入ったすぐのところの玉藻池には、カイツブリの幼鳥と思われる水鳥が、水にもぐって遊んでいた。カメラを向けるとすぐにもぐってなかなか出てこない、どこに顔を出すのかわからないので、遊ばれているようであるがじっと待つ。

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  大きな雑木林を抜けると、広い芝生があり後方には西新宿の超高層ビル群が見える。後方にはフランス式整形庭園があり、プラタナスの並木がきれいだ。真ん中にバラの花壇がありこれから秋にはちょうど良い見ごろになるだろう、ヨーロッパの雰囲気漂う庭園である。

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 下の池にむかって歩いていいると、ワカケホセイインコが繁殖しているという案内があった、この鳥は篭脱け鳥の一種で原産地はインド、昔家で飼っていた人が放鳥してそれが野生化したものである。関東近辺の日本の公園にはかなりの数がいるようである。

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  水辺にかかるコンクリートの橋にこんな説明があった。  「日本初の擬木の橋」・・・『この橋は日本初の擬木の橋といわれています。擬木とは、木の幹に似せてコンクリートや石で造ったもののことです。明治38年フランスから買ったもので、三人のフランス人がついてきて現場で組み立てました。何度か修理されましたが、当時の姿のまま残され今日に至っています。』

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 各地で擬木は見ることがあるが、そのルーツはここ新宿御苑であることを初めて知った。大発見である。

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  桂の大木を見ながら森林浴を楽しんで歩いていると、歴史建造物「旧御涼亭」の前にでた。水辺の涼を楽しむ建物である。

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 『この建物は、昭和天皇御成婚記念として、台湾在住邦人の有志から送られたものである。旧御休憩所の平面形状に卍型のモチーフが見られるなど、清朝中期以降の台湾で用いられた建築様式の特徴が現れている。』との説明。

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 日本庭園には「翔天亭」、「楽羽亭」の茶室がある。今度来るときはゆっくりお茶の御点前でもと考えながら通り過ぎる。

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 上の池ではススキの穂がきれいに出ており秋を感じさせるとともに、背景の高層ビルに良く映えている。本日は空が青くないので写真映えがしないが、紅葉の時期にはまた違う光景を見せてくれそうな新宿御苑であった。

Good by Ho Chi Minh 帰国

 中央郵便局を出ると、空の雲が一段と暗くなってきた。雨が降ってきそうである。ベトナムコーヒーの美味しいところを飲んでみたいと、カフェによる。

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  コーヒーはバントメート産が有名である。コップの上にアルミフィルターを置き、粗く挽いたコーヒーの粉をぎゅっと押さえるようにして中蓋を締め、その上からお湯を注いでコップにコーヒーが溜まるのをひたすら待つ。

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 コーヒーが落ちるとアルミの蓋を取りその上にアルミフィルターを置いて、コーヒーを飲む。ミルク入りホットコーヒーは「カフェ・スアー」。ブラックコーヒーは「カフェ・デン」、アイスコーヒーは「カフェ・ダー」、という。私はブラックが好みなので「カフェ・デン」というところ。

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 あたりが暗くなり強い雨が降ってきた。私はスコールかと思ってのんびりしていると、地元の人はこれは一時間ぐらい降りますねという。案の定、大雨になり下水の状況が悪いと見えて道路が見る見るうちに冠水してくる。この雨のなかでもバイクの人は合羽を着て元気に走っている。

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  お店の人に傘を借りて車まで行くことにした。とにかくすごい雨である。雨季にはこういう雨は多いらしい。展示場に戻ると外が雨のせいかかなりの人がいる。本日最終日となったがお客様に渡すノベルティーがなくなってしまったので、早めに切り上げることにした。午後七時半ごろには閉店にして、打ち上げ会場へと向かう。

 帰国の朝

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  タンソンニャット空港から台北経由で成田へと向かう。今回は仕事だったので観光地はほとんど見ることができなかったが、いろいろ話を聞いたり、本を読んだりするといいところがたくさんありそうである。この次は休暇をとってゆっくりとベトナム観光をしてみたいと思う。

歴史博物館 ノートルダム大聖堂 中央郵便局 In Ho Chi Minh    その6

  歴史博物館はフランス統治下の1929年にできた博物館である。 原始時代の旧石器時代。 フンヴオン(雄王)時代、青銅器時代のドンソン文化。 ベトナム民族独立への闘争時代(B.C2世紀~10世紀)中国支配の時代。

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 李朝時代(11世紀~13世紀)中国から独立した最初の長期王朝時代。 陳朝時代(13世紀~14世紀)ベトナム文字=チュノムができた時代。 黎朝時代(15世紀~18世紀)南部に領土拡大、南北の対立が激化する時代。

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 西山朝時代(18世紀後半)反乱と混乱の時代。 阮朝時代(1802~1945年)ベトナム最後の王朝時代、19世紀の後半にはフランスの植民地となる時代。

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  それぞれの時代の出土品、芸術、工芸品などが歴史を追って展示されている。100年ほど前に発見されたという「古代の女王のミイラ」も珍しい。この博物館は近代の部分がなく、いきなりホー・チ・ミン像になっている。(館内は撮影禁止)

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 その部分は、革命博物館、戦争証跡博物館、ホーチミン博物館で詳細は見ることができるのだろう。漢字の文化からベトナム文字への変遷がわかる。ここにはベトナムの54の民族の一覧表があり、なかなか興味を引かせるものである。

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           ホーおじさんの像

 サイゴン川を背にしてドンコイ通りの突き当たりにノートルダム大聖堂がある。12~13世紀に造られたヨーロッパを代表する宗教建築の最高傑作のひとつである。美しい門やステンドグラス、パイプオルガンが世界的に有名で、左がゴシック様式、右がロマネスク様式の二本の塔が特徴である。

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 ばら色の砂岩でできた建物で塔の高さは142mある。塔の上までは登れるようである、塔の上からの市内の眺めはすばらしいと説明がある。今日はちょうどミサが開催されていて入場することができた。大聖堂の前には聖母マリア像があり、サイゴン陥落のときは涙を流したとか(?)。

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            中央郵便局

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 大聖堂のすぐ隣に中央郵便局があり、建物はフランス植民地時代に建設されたもので、観光名所になっているが通常の業務もおこなわれている。中にはお土産屋さんもありベトナム特有の人形が面白おかしく飾られている。

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          ベトナムのどじょうすくい(?)

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 このように街の都心部には広くて優雅な並木道が走り、歴史的なフランス植民地風の建物が並んでいて、町並に彩を添えている。新旧混在の風景で、とにかく活気がある。きっと大きく発展していくのであろうと思う。

統一会堂(旧大統領官邸)  In Ho Chi Minh  その5

  仕事の合間をみて近くの歴史的建物を歩いてみる。統一会堂はホーチミン市の中心にある当時南ベトナムの旧大統領官邸である。

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 1975年4月30日、解放軍の戦車が鉄門を突き破ってこの大統領官邸に突入して、4階のバルコニーに金星旗をひるがえしたというあの「サイゴンの陥落」、サイゴンの解放、ベトナム戦争の終結を象徴する建物である。

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  この建物は1966年に完成し、歴代大統領の官邸として使用されてきたものである。一階にはベトナム戦争時代の写真や資料が展示されている。

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  二階にはベトナム戦争中に使われた司令室、大統領のオフィスや大小の会議室、来賓用の客室、などが当時のまま保存されている。

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 また三階には大統領夫人の応接間や映画館、図書館、娯楽室などがありマージャン牌がすぐにでもゲームを始められるように並んでいる。当時の大統領への貢ぎものが外部にみせしめのように並べられているのが印象的である。

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  四階の屋上では金星旗のすぐ下にあるヘリポートと当時のヘリコプターなどが見学できる。また、四階から見下ろす文化公園の緑の並木道は、今では平和なベトナムの姿を映しだしている。

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  地階には、当時の作戦司令室、無線室、食事室等が当時のままの姿で置かれていてさらに、地下の奥には進入禁止になっているが、非常用の避難口と思われる通路が薄暗い明かりのなかに遠く続いている。

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 統一会堂の正面には、一面に緑の芝生がきれいに手入れをされて目にまぶしく映る。

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  館内の豪華さと過去の栄華の跡を見てくると、戦争はやむをえず突入してしまうのだろうが、決して幸せなことは無い。我々の商売も同じで、負ける商売をしてはいけない。難しいことだが、社会情勢がどう変わろうとも勝ち続ける商売をしていかなくてはいけないと思う。

Exhibition in Ho Chi Minh  ホーチミンで仕事  その4

 成長著しいベトナムでは、毎年各地で大掛かりな展示会が行われている。中でも規模の大きいホーチミン市の建築資材の展示会「Viet Build 2009」に参加した。

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 ベトナムの経済は、ちょうど日本の1960年代のような活気である。人口構成も三角形のピラミッド型であり、若い人たちが多い。1976年に戦争が終わり、戦後のベビーブーマーたちが30代になってきている。日本で東京オリンピックが終わって高度成長をしたあの時代に似ている。日本の三、四十年前のニュータウンブーム、建設ラッシュの時代が今ベトナムで起きているような感じである。

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        バイクの出勤交通ラッシュ

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 インテリア装飾、建設資材、建設にかかわるあらゆる分野の国際展覧会である。905企業、2200ブース、ベトナム国内企業から、東南アジア、EUなど外国企業が多数出展している。建設資材、インテリア装飾、ガラス、ガラスドア、木製ドア、鋼製ドア、電気設備、トイレ設備、バスユニット、外壁材、屋根材など多数の建設物資やペイント塗料、不動産、ハウスメーカーなどがある。日本のメーカーもかなり出展している。

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 ベトナムでは、今までは、躯体はビルダーがレンガを積んで作り、スケルトンで引渡し,内装仕上げは施主がやるのが普通である。いわゆる建築業界でいうCM(コンストラクションマネジメント)方式という感じである。ただし、CMというほどの仕組みにはなっていないようではあるが。最近ではデベロッパーの開発などもかなり出てきている。新興の開発地では高価な建売なども売れているようである。

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 ベトナムでの一般の人の給料は約300ドル、管理職で800~1000ドル、あのバイクが800ドルぐらいである。郊外の開発地域のコンドミニアムを見てきたが、日本でいう3LDKが100㎡以上で月の家賃が約1300~1500ドル、敷地内には、プール付きで警備保障がついている。外国人用の賃貸物件であるらしいが空き室が多かった。

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 この展示会の来場者は多く、約10万人ぐらいといわれている。我々のブースも人数では約1万人、商品に対するアンケートも5、100人ぐらいからとることができた。ベトナム人の説明員は日本語のできる通訳を7人採用したが朝早くから、夜遅くまで熱心に良く働いてくれた。

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 ベトナムは社会主義国なので、男女間の給料の差はあまり無いらしい。女性の産休も4ヶ月ほどしかなく後はベビーシッターを雇って働くとのこと。民族衣裳の”アオザイ”の美しい姿で、熱心に商品説明をしている姿を見ていると、ベトナムの女性はほんとうに働き者だと感心する。無事最終日を残してここまできたことに感謝している。

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 仕事の後の一杯は格別、ベトナムのビール「333」(バーバーバー)はのど越しがうまい。つまみは生春巻き、「ゴイ・クン」、美味しいのは米粉から作った「フォー・Pho」。牛肉入りはフォーボー、鶏肉いりはフォー・ガーという。両方入ったものが美味しい。ビールは、ほかにはベトナムビールではないが「タイガー」が、これもまたいける。

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         チョット ピンボケの「333」

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               「 Pho 」

 ベトナムの夕日がきれいだといわれているが、なかなかその場面には遭遇しなかった。今回は仕事で来ているので我慢するとする。今夜も英気を養って明日の最終日に備えよう。

Ho Chi Minh City を歩く  その3

  前日、夜八時まで仕事をしてそれから食事をとる、夜の街を楽しもうとすると、ホテルに帰るのはいつも十二時ごろになってしまう。夜の街もゆっくり歩いて帰えりたいと思うが、現地の人は、危ないからとタクシーで送ってくれる。夜はバイクに乗った引ったくりが多いらしい。確かにあのバイクの運転さばきでは、肩にかけたかばんぐらい簡単に盗られてしまいそうである。

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  昨日の早朝ウォーキングは大通りを渡るのに苦労をしたので、大通りを通らないで歩けるコースにした。道路を横断するにはコツがあるらしい。車とバイクがひっきりなしにくるし、信号もほとんど無いので、どうやって道を渡るか悩んでしまう。

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  最初の日は渡れなくて途方にくれていると、シクロ(人力三輪車)のおじさんが一緒に渡ってくれたので何とか渡れた。ただ渡ったのはいいが、今度は帰りの横断に悩んでしまう。しょうがないので帰りは、シクロに乗ることにした。考えてみると、シクロのおじさんの作戦にまんまと引っかかってしまったようだ。

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  仕事場で現地の人に道路の渡り方を聞くと、ゆっくりと手をあげて、相手の目を見て渡ると相手の方が避けるか、止まってくれるとのこと、ただ走って渡ろうとすると危ないらしい。

  日本では、とかく道路は早く走って渡るほうが安全に渡れるのだが、その人いわく、ゆっくり渡れば目の悪い人でも、あのバイクの流れの中を渡ることができるという。なるほどと感心する。無法地帯のようでそれぞれ、マナーは守っているのだなと思った。

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  夜歩いた町を早朝に歩くと、また違った景色が見えてくる。ここベトナムでは、富裕層の家は必ず、鉄格子の門扉、塀をめぐらし両開きの玄関ドアをつけている。

  ベトナムの家は、間口が狭く奥行きが長いのが特徴である。日本で言う「うなぎの寝床」が多い。これはなぜかというと、税金が間口の広さで決まるらしい。日本人が多いせいか日本語での看板も見える。カラオケは日本の歌が、日本で歌っていると同じ様に歌える。

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 街角では、朝食をとる人達の姿、出勤途中で弁当を買う人、バイクタクシーで客待をする人々が早朝からいる。新聞売りのおばさんものんびりと新聞を読んでいる。バイクタクシーはグループがあって縄張りがきちんと決まっているらしい。

 朝から酒を飲んでいるように見えるが朝食風景である。戦時中の大砲の筒を囲んで団欒である。こういう光景を見ていると、南の国の人は、女性のほうが働き者であると思う。

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             朝食風景

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           バイクタクシーが声をかける  

 建設現場が近くにあったので覗いてみると、早朝から仕事はしているが、作業員はみなビーチサンダルである。型枠を組む人、瓦礫を片付ける人、足元はみなサンダル。日本では、現場は厳しい規則があるのでこんな服装では入れない、人の安全に対する意識がまだ低いのかも知れない。

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  とにかく、インフラの整備がまだできていないので道路の工事ヶ所、建設現場が多い。また電柱を見るとものすごい電線の数である。これではどれがどの配線なのかわからなくなるのではないかと心配になる。一本や二本切れていてもわからないのではないかとさえ思う。ただ、ベトナムでは停電はなかった。とかく新興国は停電などが多いものであるがそれはなかった。

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           ホテルのプール

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 今朝は、道路を渡らないでウォーキングできるコースを選び約一時間歩いた。ホーチミンの空も昨日よりはきれいな青空が見えてきているようである。とにかく早朝から活気のある街である。私も負けないで今日も一日頑張ろう。

Ho Chi Minh City を歩く  その2

 日本との時差は2時間、二時間遅れの生活である。年のせいか目が覚めるのは早いので六時半ぐらいにホテルでの朝食を済ませる。14Fにラウンジがあるので利用する。窓際に座ると眼下にサイゴン川が見渡せる。早朝でもあり雨季の季節なのでカラッと晴れた青空は見えない。

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           朝もやのサイゴン川

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  ベトナムコーヒーがおいしいので、毎朝ゆっくりとお替わりをして外の景色を眺めながら食事をする。毎朝なのでボーイさんと仲良しになる。「Good Morning」というと、彼も冗談を言うようになってきた。「Everyday coffee?」と聞いてくる。「Yeah!」と笑顔で答える。

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         水の流れはいつも濁っている

 ホーチミン市はベトナム最大の都市であり、人物のホー・チ・ミンと区別するためにホーチミン市またはホーチミンシティと呼ぶ。旧名はサイゴンで旧南ベトナムの首都であった。地元住民や旅行者の間ではホーチミン市ではなく現在でもサイゴンという呼称が使われることが多い。首都ハノイがベトナムの政治の中心なら、ホーチミン市は経済の中心地である。

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        シクロ・・・人力三輪車

 人口は650万人といわれているが実際はかなりの人口がいるらしい、人口密度はかなり高いと思われる。サイゴンという語源は「小枝=Sai 」 と 「幹=Gon」 であり、かってはこの街の周囲にあった背の高い木々が密集した森に因むといわれている。南ベトナムの陥落後の1975年5月1日、現在の共産主義政府がその指導者の別名であるホー・チ・ミンに因んで当市を改名した。

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             朝食風景

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 1698年、ベトナム人貴族であるグエン・フー・カインが、この一帯にベトナム人による統治機構を構築した。1859年にフランスによって占領された。フランスにより植民地として占領されている間、この街はフランスの影響を受けた。そのことが、この街に数多くの古典的西洋風の建築に表れている。そのため、サイゴンは「極東の真珠」とか、「東洋のパリ」と呼ばれることも多い。

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  1954年のジュネーブ協定によりベトナムが公式に北ベトナム(ベトナム民主共和国)と南ベトナム(ベトナム共和国)に分断された。1965年から米軍参戦によってベトナム戦争が本格化すると徐々にベトナム共和国は劣勢に陥り、1975年4月30日にベトナム戦争が終結すると、この街はベトナム人民軍の支配下におかれた。ベトナムでは「サイゴン解放」と呼ばれ、その後、社会主義化されると、華僑を中心に難民が流出した。

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 1976年、共産主義の統一国家ベトナム社会主義共和国が成立したことにより、ホーチミン市が作られた。

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        人民委員会庁舎とホー・チ・ミン像

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 1986年末のドイモイ政策の導入後、ベトナム経済は急速に発展しつつある。ドイモイ政策とは、ベトナム共産党第六回大会で提起されたスローガンで、経済(価格の自由化、国際分業型産業構造、生産性の向上)、社会思想面での新方向への転換を目指すものである。 ドイは 「変える」 、モイは 「新しい」 を意味するベトナム語である。日本語では「刷新」と訳される。

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             ベンタイン市場

 サイゴン地区最大の市場、駅舎のような巨大な建物で日用雑貨、衣料品、電化製品、みやげ物、食料品と何でもそろっている。スリが多いらしい。 

  中国の「改革、解放」経済ををまねており、ベトナムの政策は中国の動きを数年遅れで追いかけている状況である。最近、中国からバイクが安く輸入されるようになり、バイクがおよそ300万台に増えている。自動車も40万台以上あり、市内の主要な道路を埋め尽くし、交通渋滞や大気汚染が広く問題視されるようになっている。北京が「自転車の街」であるとすれば、ホーチミン市は「バイクの街」といわれるゆえんである。

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  ほとんどのバイクがホンダ、ヤマハ、スズキと日本のオートバイである。車はトヨタが圧倒的に多い。バイク、自動車のメーカーの社長がこれをみたら、さぞかし喜ぶだろうなという光景である。しかし人の話によればニセモノも多いのだと聞く。

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       メーリン広場のチャンフォンダオノ像

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              おなじみベトナムすげ笠「ノン」

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  とにかく、活気があって元気な街である、ベトナムへの日本のODAは40%を占めるという。親日家が多いように感じるし日本語を勉強している学生が多い。最近の計画では、北のハノイから南のホーチミンまでの新幹線構想が出ている、夢のある話である。現在は赤さびた鉄道が単線で伸びており、1726kmを40時間かかるという、それが五、六時間で結ばれたら、また明るい未来が開ける。

  今日の仕事は、朝八時から夜八時まで、暑さと喧騒にまけないようにオートバイのながれに向かう。

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ホーチミン In Vietnam その1

  商用でホーチミン市に行くことになった。早朝のバスで成田に向かう。9時40分発なので約二時間前までに空港に行かなければならない。荷物をバスのトランクに預け、朝焼けの始まる高速道路を快適に走る。乗客は座席数の半分くらい、100年に一度の経済ショックといわれてずいぶんたつが、日本にはまだあまり明るさが見えてこない。

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 一時間半ほどで、成田新東京国際空港3Fに着くと航空会社のカウンターで手続きを済ませ、時間があったので、軽く朝食を済ませコーヒーを楽しむ。いすに座って滑走路を眺めていると、海外の航空会社の到着便が降りてくる。この空港の開港にあたっての農民、それを支援する学生の反対運動、いわゆる 「成田闘争」 の光景を思い出しながら時を過ごした。

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  成田闘争の概要・・・1962年11月、当時池田内閣は第二国際空港建設を閣議決定し、その場所は最終的に千葉県成田市三里塚地区に決定された。これに対し、反発した地元農民らが 「三里塚空港反対同盟」 を組織し、新左翼活動家もこの闘争に加わった。”抵抗”と”排除”の衝突は繰り返されたが、1978年5月に成田空港はついに開港。ただ、その後も闘争は終わらなかった。「25年闘争」といわれたが、現在も滑走路予定地には、まだ反対派の土地が残されている。

  定刻に飛行機は離陸した。遠ざかる滑走路に迂回している部分が見える、それが今も残る反対派の土地の部分である。事業を起こす場合の事前の話し合いがいかに大切かということを考えさせられる。

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  ホーチミンまでは約7時間のフライト、途中台北で乗り継いでいく。座席はビジネスだったのでゆっくりできた、一眠りすると台北に着いた。直行便もあるが、乗り継ぎの方が割安なのである。

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  ベトナムは、正式にはベトナム社会主義共和国、面積は33万2000k㎡(日本の0.9倍)人口は8,616万人(2008年)、人口増加率1.1%(対前年比)、首都はハノイ(623万人)、日本との時差は-2時間。キン族(越人)約86%、他に53の少数民族、宗教は仏教(80%)、カトリック、カオダイ教、千年を超える中国支配を経験した中国文化圏最南端の国である。通貨はドン Dong 1円=195.2VND(ベトナムドン)。

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  台北で乗り継いで、約三時間でタンソンニヤット国際空港についた。軍民共用空港であり、ホーチミン市(サイゴン)の中心街(1区)の北約7kmのところにある。飛行機を降りて入国手続きのところにいくと、検査官全員がマスク姿、異様な雰囲気であるがすんなりパス。

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  空港では社員が迎えに来ることになっていたので出口あたりを探したが見当たらないのでタクシーでホテルに向かうことにする。 実際は現地の会社の社長が、名前を紙に書いて迎えに来てくれていたとのことだったが、出会うことができなかった。 

  せっかくの好意を無駄にしてしまって申し訳ないと後で謝っておいた。空港の出口では、タクシーの呼び込みがすごい、ベトナム語はまったくわからないので、片言英語でタクシー乗り場からホテルへの乗車を告げる。

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 走りだすと先ず驚いたのは、オートバイが多いことと二人乗り、三人乗りは当たり前、中には家族で五人乗りもある。運転手と片言英語で話しながら四十分ほどの道のり、ヘルメットをかぶらないで警察官に捕まっている人がいたので聞いてみると、罰金が20万ドンだという。だけど20万ドンを警察官に渡すと無罪放免になる、賄賂の横行する社会なのである。それにしても、オートバイが多く、またその上にクラクションがすごい、ひっきりなしにク ラクションを鳴らす。公務員の給料は安く、この臨時収入のほうが多いのだと聞いた。

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  ちょうど日本でいえば、東京駅の地下を歩くと、あれだけの人がぶつからないでうまく行き来している状況が、ホーチミンではオートバイと自動車と人がぶつからないで行き来しているような感じである。信号無視、一方通行の逆行、歩道乗り入れあり、何でもありのホーチミンの初日。

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  明日からの生活が楽しみでもあり、不安でもあるがひとまずホテルに着いた。タクシー代は6ドル、1ドルは17,800ドン。ドンの持ち合わせが無かったので運転手さんに待ってもらってホテルで両替をして払う。106,800ドン也,ドルとドンを聞き間違えると青くなってしまう。なれないと金銭感覚が狂いそうである。

 ホテルの近くの夜の街を歩いてみた。こじゃれた店もあるが、そうでない店もたくさんある。五日間の仕事と生活が楽しみである、好奇心、向上心、向学心でがんばろう。

ホタルの里  上谷戸(かさやと)を歩く

  中秋の名月か、月のきれいな夜だった。最近の夜の明け方はだんだんと遅くなってきている。新聞配達も夏の最盛期には四時ごろには入っていたが、最近は夜明けの遅れと共に遅いような気がする。

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  ホタルの里の上谷戸の散策路を歩いていると、先週出あったと思われるキジの家族に会った。母親と子どもが四羽、公園の手すりに止まって日の出を待っている感じである。キジは保護色ではあるが、かなり近ずいても逃げようとしない人なつっこい感じがする。

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  キジバトとはキジのメスに良く似ているから、キジバトと呼ばれるという説もあるほどである。キジバトの雨覆と肩羽の斑や模様はメスのキジに良く似ている。

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  ホタルの里の小川の流れに沿って散策路を歩いていると、農家の栗畑が傍らに見える。栗の実はそろそろ熟し割れて落ちる時期になってきたようである。早い秋の気配を感じる光景である。

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  しばらく行くと、上空にかかるコンクリートのアーチ橋の下に小さな公園があり、水車小屋がある。小川にはカルガモが泳ぎ、アオサギも朝食にやってきている。

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 上谷戸を後にして大栗川方面に向かう。早朝の大栗川には、アオサギ、小サギ、大サギが食事中であった。合流点付近にはオオタカがいたが枝がじゃまをして良く見えない。川では亀が甲羅干しをするためにコンクリートの上に這い上がろうと頑張っている。電線には腰赤ツバメの幼鳥が止まっている。

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 朝露に靴はぬれてしまっているが、すずしい朝のウォーキングができるようになった。季節の移り変わりは早いものである。夜になると夏のせみの声から、秋の虫の声に変わっている。

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  今年は、そんなに厳しい残暑もなさそうである。九月に入っての朝夕の涼しさは、秋はもうすぐそこに来ていますよといっている様に聞こえる。そろそろ秋の鳥たちが渡ってくる季節になる。

札幌の空

  札幌市内のお客様廻りをしてみて北海道の経済の厳しさを改めて感じた。メーカー三社を訪問したがどこの会社も第一四半期は前年比50%の受注状況である。各社支店長は人員削減しないとやっていけないと頭を痛めていた。当社も同じであるが。

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 100年に一度の不況といわれているがかなり厳しい。100年に一度ということは、現在現役の人達は誰も経験していないということであり、過去の経験則からの対応では打開できないということになる。何とか知恵を出して乗り切らないと、存在感がなくなってしまう。

  目線を切り替えて市場を見直し、計画を見直して方策を立て直さなければならない。こういう市況でも増収増益を達成している企業もあるので分析研究してみる必要がある。

  午前中、最後に訪問したお客様の前が、札幌ビール園なのでそこでランチをとることにした。景気は厳しいが、札幌の空は真っ青に晴れ上がり、空の雲も秋を思わせるように高いところにある。

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  ジンギスカンランチ1000円なり、これがなかなか美味しい。学生時代に札幌に来たときに同じくジンギスカン鍋を食べて、その美味しさが忘れられずに東京に帰ってから、友達の家の庭の芝生に同じように焼肉用の鍋を用意して、マトンを買ってきて、もちろんサッポロビールでジンギスカン鍋をやったことを覚えているが、なかなかこのサッポロビール園の味わいは再現できなかった。

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  やはり、ここサッポロの気候風土、蔵出しのビールの味は異郷では再現できないのかも知れない。現地で味わうラム、ビール、野菜がここの雰囲気と共にほどよい感じを醸しだしているのだろう。今日はランチなので、蔵出しビールは無いのが残念だが、コーヒーで我慢をする。

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  ビール発祥の地サッポロは、開拓使直営のビール工場をサッポロに作ったのが始まりである。北海道は、気候が欧米と似ていてビール製造に適していることもあって札幌での工場建設がすすめられた。ミュンヘン、サッポロ、ミルウォーキーといわれる所以である。サッポロビールの星マークは、開拓使の頃の北極星をモチーフにしているのである。「男は黙ってサッポロビール」最近は「女はわいわいサッポロビール」という感じだろうか。

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  明日の日程が詰まっているので、早めの飛行機で帰ることにした。新千歳飛行場からは、青い空に遠く大雪山にかかる雲が見える。来たときは嵐のど真ん中であったが帰りは良い天気である。札幌の今後をうらなっているかのようである。今がどん底これからは上に行くしかないと信じて札幌を後にする。

北大構内  ポプラ並木を歩く

  北大前のホテルに出張の宿を取る。ホテルでコーヒーとスープで軽く朝食を済ませ、外に出てみると、それた台風の後の秋を感じさせる雲の切れ間にきれいな青空が顔を出している。早朝の出勤風景を見ながら、ウォーキングをする。

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  大学の正門を入ると右手に赤レンガの建物が見え、その緑鮮やかな芝生の中に 「大志を抱いて」 の石碑がある。早朝の人影もまばらな構内をおいいしい空気を胸いっぱいに吸いながら歩く。

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  国公立大学では日本一キャンパスが広い北海道大学、そして約130年という古い歩みを持つ北海道大学。通称北大(ほくだい)という。

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  なぜか空気が軽くさらっとしていて爽やかに感じる。この空気であればゴルフボールの飛びが一段と伸びるのではないかと感じた。今日はその予定がないので残念だ。

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  「札幌農学校」として開校したときは、現在の札幌時計台の近くにあり、1880年には演武場つまり現在の札幌時計台で第一回卒業式を挙行したといわれている。

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  手入れのされた芝生と、木々の緑が目に優しく、流れる水はきれいに澄んでいて、川底の石を映し出している。大学の構内は、通勤姿の自転車に乗る人、ジョギングをする人、のんびり歩く観光客、さまざまな人達と行きかう。

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  1907年からは一時期、仙台の東北帝国大学農科大学になり、1918年には独立し、国内5番目の帝国大学「北海道帝国大学」となった。1947年10月から「北海道大学」と改称され、現在に至っている。

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 のんびりと歩いていると左手前方にクラーク記念館とクラーク博士の銅像が見えてきた。

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  William Smith Clark  博士はアメリカ人で明治の初め札幌農学校(現北海道大学)の設立時に来日した。明治政府は北海道に開拓使を置き、北海道開拓の構想をアメリカのシステムでやることになり、1876年クラーク博士50歳のときに日本に来た。1877年4月任務を終えアメリカに帰るとき、見送りに来た学生たちに 「Boys be ambitious like this old man. (少年よこの老人の如く大志を抱け)」 という言葉を残して去っていった。有名な言葉である。

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  構内は新しい建物と、古いレンガの建物、木造の校舎ときれいに調和がとれて整備されている。大きな古い木のしたを歩いていると、”老木につき倒壊に注意” と看板がかかっている。良く見ると大きな木の切り株が数箇所あり、これはたぶん、折れたか倒れたものではないのだろうか。歴史を感じさせる光景である。

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  かの有名なポプラ並木のほうに足を向ける。早朝にもかかわらず北大の農場には学生と思われる数人の男性が作業をしている。雲はあるが澄んだ青い空が広がっているポプラ並木の下には、コスモスの花が咲き始め、秋の気配を感じさせる。

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  札幌農学校第二農場は1969年に国の重要文化財指定、また、後に北海道遺産に指定されている。北大キャンパスにひっそりある建築物。開校まもなく作られた農場である。第二もあれば第一もある。第一農場は、学生の教育や研究のための施設、第二農場は北海道畜産経営のモデル農場であった。また、ここは日本畜産業の発祥地の一つとなっている。

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  爽やかな北大構内の散歩を終えて、ホテルに戻り今日の仕事の準備をする。現実に戻ると北海道の、札幌の経済の厳しさの現実に直面する。ニュースでは新政権への期待やら不安などの報道が連日されている。日本のこの閉塞感を打破すべく国民の意思の表われが今回の選挙の結果なのではないだろうか。迎えの車の呼び出しがあった。本日もこの爽やかな空気を胸いっぱいに頑張っていこう。

台風を超えて

17:00ちょうどのANA73便、札幌新千歳空港行きに乗る。あいにくの台風11号本土直撃とあって、欠航も危惧されたが5分遅れで離陸することになった。午後三時ごろは欠航便もあったようではあるが安心して乗ることができた。

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  窓の外はたたきつけるような雨。飛行機の窓の外を流れる雨のしずくが次から次へと流れる。かなりの雨が降っているのだろう速い流れである。少しの不安を感じる。

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  出発の遅れをわびるキャビンアテンダントの声、滑走路面を見るとたたきつけるように雨の波紋が流れている。かぜもかなり強く吹いているようだが、これくらいでは欠航しないのだと不安の中にもなにか安堵感がある。

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  いつでも笑顔で語りかけてくれる客室乗務員はうれしいが、機内といえば50%程度の搭乗率か、席は閑散として空席が多い。窓側の三人掛けも私一人である。前のせきは空席、外の光景とは別に、内部はなんとなくゆったりとした空の旅の雰囲気である。

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 機内スクリーンで見る外の滑走路はものすごい水しぶきをあげている。滑走路へ向けて飛行機は静かに動き出した。こんな悪天候の中を飛び立とうとしている”B-747-400”は本当にえらいと思う。

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  滑走路の端までゆっくり移動した飛行機は、両翼のエンジンがフル回転すると轟音とともに17:28分離陸、右旋回しながら一気に雨雲の上へと向かう。眼下には台風の雨雲が真っ黒に渦巻いている。羽田のあの大雨がうそのようである。

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  雨雲のうえに出ると窓から西日が機内に差し込む、外は、果てしなく続く青い空の下に台風の黒い雲を見ながら、B-747が時速980キロメートルで一路新千歳空港に向けて飛んでいる。機内サービスのコーヒーをのみながら雑誌を読んでいると、着陸態勢に入る準備をしてくださいというアナウンスが聞こえる。いつの間にか機体はもう降下体制に入っている。

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 黒い雨雲の中を静かに降りていく、飛行機の小刻みに揺れる横揺れと、また、時にはスーと落ちるような感覚を味わいながら外を見ていると、夕暮れのきれいな雲海が見える。左旋回をしながら飛行機は最後の着陸態勢に入った。新千歳上空は雨もなく良い天気で、周りの山々がシルエットなってきれいに見える。明日は良い仕事になりそうである。空港駅から夜の札幌へ向かう列車の席に身をうずめる。

若葉台 蛍の里

  短い夏が終わり、九月に入ると急に涼しくなった。夜の明けるのも幾分か遅くなってきたようである。今日の早朝散歩は東方の尾根幹線を歩いてみる。ここには多摩カントリー、と米軍キャンプのゴルフ場がある。新しいニュータウン開発と古くから居住する谷戸の人達との融合がうまく行っているだろうと思われる場所である。

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  ここは、かつては山林原野であり古い農家とゴルフ場が広がる丘陵の地域であった。ニュータウンができて、電車が開通して景色は一変した。長い間造成地のままであったが、ここ五、六年でずいぶん開発された。最近は新しいマンションが建ち並び、戸建て住宅も増えてきれいな町並を見せている。

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  整然と区画整理された住宅街を抜けると、整備された芝生の公園に出る。昨日の晩は夏祭りがあったようだ。宴の後、盆踊りのやぐらが残り、紅白の幕がかけてある。公園から見下ろす風景は穂を実らせ始めた稲の植わった棚田の景色である。川の上流の農家の裏山にマンションが出来上がったという感じの地域である。

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  朝日をうけて、光る稲穂をみながら川沿いに歩道を歩いていくと、キジの幼鳥と思われる一団が稲穂をつついている光景が見える。なんとのどかな風景ではないかと思いつつ、望遠レンズをもってこなかったことを悔やみながら、手持ちのコンパクトカメラで狙ってみる。オスの姿が見えないので映像としては映えないが被写体になってもらう。「キジも鳴かずば打たれまい」 といわれ、いつもは鳴き声ばかりでなかなか姿が見えないが、警戒心もなくのんびりしている若たちである。

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 しばらく田んぼのわき道を歩くときれいな川が見える。川岸には箱が並び、そこには 「ホタル飼育箱」 と書かれている。蛍を育成しているようである。蛍は6月の田植えの頃に、真っ暗な夜空を飛び、きれいな明かりをともして我々の目を楽しませてくれるが、地元の人々がこんな苦労をしているんだなと改めて見直し、清流を守るということは大変ことなのだと思いをはせた。

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  本来であればこの川の水、そのままで蛍が生息していたのだろうと思われるが、たぶんニュータウン開発で水が汚れ、飼育箱を置かなければならなくなったのではないのかと推測する。

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 土手から川沿いに降りて、踏み石の並ぶ川原を歩くと、きれいな水の流れにクレソンがたくさん生えている。水の中の流れを覗いて見ると、小魚が泳ぎ廻っている。遠くからカワセミの鳴く声が聞こえるが、私の姿を見つけたせいか近くにはきてくれなかった。

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 この地域に住む人達が、自然を守ろうと手入れをしている姿が目に浮かぶような谷戸の風景である。住宅開発も必要だが、やはり自然をこわさない、昆虫や植物が生息でき、人と共生できるようなバランスの取れた土地開発が必要であると思う。

  来年はここで、浴衣姿でうちわを持って、「ホー、ホー、ホタル来い、こっちの水は甘いぞー、そっちの水は苦いぞー」 とホタル狩りをしてみたいものだ。子どもの頃は狩るであったが、今はホタル鑑賞になるのであろうか、楽しみである。

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