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2009年11月

石挽き蕎麦    新そばを食べる

  「そば好きは健康で長生きだ」と昔からよく言われている。だから、私は健康なのかとそばに感謝している。川崎市麻生区の多摩丘陵においしいそばが食べられるところがあると聞いたので行ってみた。

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  入り口には菊や松が植えられきれいに手入れがされている。店の前が駐車場になっているが五六台が精一杯の感じがする。 蕎麦処 「寿々孝」 である。

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  店内には 「品良し、味良し、蕎麦三昧」 という看板がかかっている。何かこだわりを感じる雰囲気である。

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  入り口の脇には、自家製粉茨城産そば使用と書いた張り紙があり、中では自動式の石臼がそば粉を引いていた。ショウウンドウのようにガラスばりになっていて、なかの様子がよく見える。

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    店内に入ると大きく 「こだわりの七箇条」 と書いた額が掲げてある。

『一、  玄蕎麦は国内産地より仕入れ、国内産にこだわります。

 二、  石臼自家製粉機を店頭に置き、毎日挽きたてのソバ粉にこだわります。

 三、  昔ながらの手打ちの良さを十二分に楽しんでもらうことにこだわります。

 四、  かつお節は歴史ある天然だしを使用し、かつお節にこだわります。

 五、  麺つゆに科学調味料を一切使わず、そば店基本のかえしにこだわります。

 六、  食とは、人に良いと書きます。人に害にならない健康食にこだわります。

 七、  美味しいそばの基本、挽き立て、打ち立て、茹で立ての三立てにこだわります。』

とある。

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             窓辺の花

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              大根そば

  普通はおろしそばが多いが、ここは大根そばが美味しい。大根の千切りとそばが混じっている上に、大根の千切りがトッピングされている。このコンビネーションが歯に心地よく、つゆをつけてするするとよく入る。辛味大根でも美味しいかなと思う。逸品である。

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    窓辺のイナゴの紙細工

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  メニューを見ると、昼のランチも時間制限があるがお得になっているようである。こだわり蕎麦やのこだわりメニューで健康な毎日を送りたい。昔は蕎麦やで美味しい日本酒を飲むのが贅沢だといわれていたが、本当にその通りだと思う。この次は車ではなく、歩いてそばと酒を楽しみに来たいと思う。

多摩市の秋    近所の紅葉狩り

   多摩市の周りにも紅葉の色がきれいに色づいてきた。早朝ウォーキングもところどころ緑も残る木があるが、落ち葉を踏みしめて軽快に歩くことができる。なぜか、落ち葉は歩く足元を軽くしてくれるような気がする。

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  いつもの 横山の道 から聖ヶ丘方面に歩いてみる。秋から冬の鳥たちが里に下りてきて、いろいろなところで鳴き声が聞こえる。まだ警戒心が強いのか、人里に慣れていないのか姿を簡単に見せてくれない。ルリビタキやジョウビタキの声が聞こえてくるが姿は見えない。

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  公園の散策路を歩いていると、カメラを持った同好の士が歩いてくる。行き違いざまにしばしの情報交換をする。ルリビタキが高いところにいるとの事である。こうして朝の小鳥たちの動きを知り、お互いの持っている情報を確認する。これが結構参考になる。まめに行動している人はかなりの有力な情報を持っているので助かる。

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  今年はあまりきれいに色がつかないうちに落ちてしまう葉も多いようである。これも地球温暖化の影響なのだろうか、紅葉は気温が約八度以下になり、日中は陽の光が十分当たることにより、いい色が着いてくるといわれている。そして葉を落とし、冬を迎える準備をするのだという。

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  山道を下りる頃になると、朝方雲が多かった空も青空が見えはじめ太陽の光がまぶしくさし始めてきた。メタセコイアの葉が赤くいろづき青い空にきれいに写っている。

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  ここには数本しかメタセコイアの木はないが、鶴牧のほうに行くとメタセコイア通りという道路がある。道路の両側にはたくさんのメタセコイアの木が整然と並ぶ、遠くからの眺め、木を見上げた眺め、色づいた木々はきれいだ。

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  池があり、小鳥たちが水浴びに来る場所の紅葉がきれいな色をつけていた。ここに約半日ぐらいいるといろいろな小鳥たちが水浴びに来る。そんなときはカメラをもった人たちが三脚をたてていっせいにシャッターを押す姿が見られる。ちょうど山茶花の花が池の周りの石の間にきれいに咲いているのでアングルとしてはいい。

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  すでに、少し遅い感じのするイチョウの葉が青い空をバックにきれいに写る。イチョウも雄、雌の木があり、実をつけるとあの異様な臭いがする。食べるとおいしいがあの臭いには閉口するが良い酒の友である。

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  約一時間ぐらい歩いて家の近くに来ると、トウカエデの赤い色がいかにも ”秋” といっているように真っ赤に燃えていた。道路の両側に並ぶトウカエデは毎年きれいに赤くなる。

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  イチョウも曇り空ではあるが、黄色が鮮やかである。また根元に落ちたイチョウの三角の葉が絨毯のように広がっている。

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  イチョウは生命力が強く、空高く幹を伸ばし力強く根を張っている。イチョウの葉エキスとか漢方などにも使われている。銀杏の甘皮をむいた、あのグリーン色の粒をあら塩につけて食べると、酒のつまみにはもってこいである。

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  落ち葉を踏みしめながら今日も日課の一万歩を達成した。周りの樹木を見渡すと赤や黄色のきれいな色で、人々の目をを楽しませた木々の葉はその生命を終え、落ち葉になることで、また来春新しい芽をだす木々の肥やしになっていく。人生も同じだと思う。散りぎわを美しく、後世のためになるような生き方をしたいと思う。四季のある日本に生まれ、育った幸せを感じる。深まり行く秋の空と雲に感謝する。

武蔵丘陵  森林公園の楓ライトアップを見る

  早朝は曇っていた空も、九時ごろにはすっかり晴れ上がり、一面の青空をみせ、暖かな日差しが差し込むリビングで時間をもて遊んでいると、かみさんがもみじのライトアップを見に行こうと言い出した。

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             山田大沼

  埼玉県滑川の森林公園で11月7日から12月6日まで、 ”紅葉見ナイト” といって楓のライトアップとアートイルミネーションがきれいだと言って、ちゃんと新聞の切抜きを用意している。午後二時ごろに出かけることにした。

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                カワウ

 これも快適な1000円高速で東松山インターで降りて、熊谷方面に向かって10分ぐらいのところにある。かなり広い公園なので南口、西口、北口と中央口がある。ライトアップは中央口をはいったカエデ見本園で行われている。

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  駐車場は中央口が近いが料金が610円、夜は300円になるがその近くに民間のパーキングがあり約200台ぐらい入る、一律300円である。ライトアップは午後八時半までなので昼間から止めるには民間のほうが得である。

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  三時四十分ごろに着いたので公園内を少し歩くことにした。石段を少し登ると山田大沼に出る。園内にはたくさんの沼があるが山田大沼は名前の通り園内で一番の大きな沼で、沼の周辺には多くの種類の小鳥たちがいるようである。

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     日が落ちるの待つ行灯

  よく見ると夕日の影にかわうの群れが見える。たぶんここをねぐらにしているのではないかと思われる。沼の水はあまりきれいではないが、夕日に鏡面のようになって木々の陰を落としている。

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               カワウ

  沼の橋を渡りぶらぶらと歩いていると、きれいなカエデの木がありたくさんの人がカメラを向けていた。赤や黄色の葉がちょうど夕日がかすかに当たりきれいに映っている。

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  カエデ見本園のほうに足を向けていくと、途中にサイクリングコースがあり、丘陵の林間コースで全長17キロメートルあるという。サイクリングロードを歩き始めたら歩行禁止となっているので急いで退出した。木漏れ日の中を快適に走る家族連れが多い。自転車の持ち込みも可ということでたのしんでいるようである。今度来るときは自転車を持ってこようと思う。

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         カエデライトアップの入り口

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  カエデ見本園には約20種500本のカエデがある。紅葉というのは総称であってカエデの葉のことを言っている。ライトアップされたカエデは、昼間の日の光に映えるカエデとまた違った美しさを表現してくれる。カエデもたくさんの種類があるものだと初めて知った。

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             紅葉茶屋の石灯籠

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       夜の紅葉と月

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  植物園展示棟にはきれいなイルミネーションが飾られ、中ではカエデについての詳しい説明や工作、その魅力について展示されている。

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             植物園展示場

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              木の葉の灯り

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             メイプルメッセージ

 壁には紅葉の形にきった色紙が置かれ、好きなメッセージを書いて貼るようになっている。これもまたきれいな紅葉ツリーになっている。  

  夜の紅葉の中を、行灯に案内されて歩く光景もまた楽しからずやである。上を見上げると明かりに照らされた紅葉の木々のかなたに三日月と金星がきれいに見える。

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          紅葉の間に小さな三日月

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  少し寒くなってきたので帰り道の方向に向かう。途中に、「森林公園アートフェスタ2009」といってプロ・アマを問わないアート作品が展示されている。その山側の傾斜には ”Myカップをともそう” と傾斜に沿って、それぞれの思いをこめたたくさんのMyカップがならんでいて子供たちの夢や想いが書かれている。

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        電車のイルミネーション

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              ぞうさん

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  日の光に輝く紅葉の色もきれいだが、夜に見るライトアップの紅葉もまたそれに劣らずきれいに見える。きれいなイルミネーションは子供にも人気がある。子供連れ、若いカップルが多いように感じられた。あまり寒くもなく風もなかったので秋の一夜を楽しむことができた。

信州りんご     実家でのりんご狩り

  長野の実家でりんご畑をやっているので、りんご採りを手伝いながらりんご狩りをしてきた。おかげさまで、これまで、りんごと桃はお店で買って食べたことがない。いつも十一月十日を過ぎる頃になると、りんごが美味しくなってくる。紅葉も終わりごろではあるがまだきれいな色をつけている。

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  りんごは、木の下に銀色のシートを敷き満遍なく色がつくようにする。光の反射でりんごのお尻のほうまできれいに色がつくようになる。植物は何でもそうだが熟して実が落ちる間際が一番美味しくなる。だからりんごも出荷寸前まで木につけておくが、機を見てとらないと鳥や蜂の餌になってしまう。

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     向かいの山の秋色

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  りんごの採り方にはコツがあって、ツルをきれいに残して採らないと売り物にならない。また素手で取ると、つめの跡や傷をつけるのでりんご採取用の手袋があってそれを使う。それでもツルが取れてしまったり、傷がついてしまったりするので、そういうのを自家用で食べるようにもらってくる。味は変わらないのでお得である。

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  いわゆる「訳ありりんご」といわれるものである、形が悪いとか、色に少しムラがあったりするもので、使い方によっては便利である。因みに私はこれでりんごジャムを作るが、シナモンの香りをきかせると美味しいジャムができる。

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  また、美味しいりんごほど鳥がつついたり、蜂が食べたりしているのでそれも又、自家用で食べると大変美味しく食べることができる。

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  最近は、猿が人里近くまで出てきてりんごも食べられたりする。猿は賢いのでりんごの木をゆすって落として食べるのでこれもまた困ることである。ちょうどりんご採りをしていると猿の親子と思われる集団が近づいてきた。天気もよいので岩の上に上ったり、飛び回ったりしている。

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         青空に鈴なりの柿

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  真っ赤な顔をしているオス猿と思われる猿と目があってしまった。カメラを持ってくればいい場面が撮れたなーとちょっと残念であった。畑の周りには電線を張り、電流を流して防衛してはいるが猿も学習能力がありそれをすり抜けてくるようである。電流で仲間が死んだりすると近づかないが、しびれる程度だとあまり効果がないようである。

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             ピラカンサ  バラ科

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              野ブドウ

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        藤の実

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          ツツジの葉ともみじ

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 落ちたもみじの葉が石垣に残り、太陽の光に透けて真紅の輝きを見せている。

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        5~6年は朝の時を告げている

 隣の鶏、かなり長老だが元気である。毎朝大きな鳴き声で時を告げている。飼い主のおじさんはこの鶏と会話ができるとのことである。たまに実家の庭に遊びにきて、縁側のサッシの窓をつついて挨拶をすると母が言っていた。

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  落ちたりんごも捨てたものではない、人生も同じか。

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 りんごは昔から健康に良いといわれ、「一日りんご一個病気知らず」 といわれるほどである。長野県人は長寿で老人の医療費が少ないといわれているがそれが要因の一つかも知れない。りんごを食べて健康で長生きをしよう。

信濃 清水寺    もみじ狩り

 信濃保科の清水寺(せいすいじ)は平安時代からの歴史があるお寺である。春先は牡丹の寺として賑わう。天平14年(742)行基が開基したといわれている。

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  かつては本堂・庫裏・土蔵・物置、惣門・鐘楼、八将社、仁王門、大日堂・三重塔・薬師堂・観音堂、ほかに念仏堂・経堂・焔魔堂・寝釈迦堂、大己貴社・熊野社などがあった。

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  大正五年(1916)五月十日、近くの民家からの出火による火災により、500メートルにも及ぶ老杉並木と共に灰燼に帰した。大日堂と三重塔は、明治四十年(1907)に古社寺保存法による特別保護建造物の指定を受けていた建物であった。

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  建物と共にこれらの堂舎にあった大日堂の大日如来、三重塔内の五智如来、観音堂本尊の千手観音などの神仏像も焼失してしまった。

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 重要文化財の「鉄鍬形」は靖国神社の遊就館に展示されていたために無事だったといわれている。坂上田村麻呂は蝦夷征伐の往路、戦勝を祈願し、帰途に「鉄鍬形と」「直刀」を奉納し、伽藍を建立したといわれている。

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  その後、清水寺復興に執念を燃やしたのは当時副住職であった刀根川隆光師だといわれている。奈良県の廃寺同様の寺から保存状態の良い仏像がまとまって発見され、それを清水寺に移動することにしたのである。

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 いろいろ困難はあったようであるが、大正七年に十九体の仏像を清水寺に迎えることができたのである。当時のお金で六千円を支払ったといわれている。因みに今の金額では一千万円を超える大金であった。この大火での民家の新築資金は一軒あたり二~三百円であったといわれているのでかなりの金額である。

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  これらの仏像がいかに歴史的や様式的に優れた仏像であったかは、清水寺に移転してから三年後の大正10年に、千手観音菩薩像・阿弥陀如来像・薬師如来像・聖観音菩薩像・地蔵菩薩像・多聞天像・広目天像の七体が国宝に指定されたことがすべてを物語っている。

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 今年の十一月十四、十五日は紅葉祭りがおこなわれ、山門の前で何か儀式が行われていた。青い杉の葉に火をつけてなにやらの法要のようである。説明書きとアナウンスがあったが、赤い紅葉の葉があまりにもきれいで目に飛び込んできたので、石灯籠の並ぶ石段をもみじの木々をみながらゆっくりと登る。赤、黄色、緑の葉の色がきれいに映る。

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 石段の両側には、竹筒を斜めに切ったろうそくたてがきれいに並び、夜の足元を照らしてくれるのだろうか?。紅葉の夜間ライトアップもあるのだろうか。夜まではいられないので今を満喫することにする。ちょっと雲が多く残念だが色あざやかにもみじの葉が輝いている。

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  この真っ赤な紅葉の葉は、やはり太陽の逆光で見るのが一番きれいだと思う。黄色の葉と赤い葉のコントラストがきれいだ。ちょうど太陽が山に隠れるところなので雲間に光を浴びて、光のあたったときが一段と赤さを増してきれいに見える。

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  このような赤いもみじの葉は、京都でしか見られないかと思っていたが信濃の清水寺で見ることができた。京都は清水寺と書いて、”きよみず寺”と音読みになるがこちらは”せいすいじ”と訓読みになる。何かの縁があるのであろうが、いずれにしても秋の紅葉狩りを堪能できたことはうれしいことである。

信州「もえぎ野」   新そばを食べる

   あいにくの週末の雨であるが、天気予報では午後から雨はあがるとのことなので、それを期待して信州朝日村にある 「もえぎ野」 に新そばを食べに行くことにした。ちょうど今頃は新そばがでまわってくるころで、どこの蕎麦屋も新そば入荷の張り紙がかかっている。

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  中央高速は大雨で風が強かったが、諏訪湖を過ぎ塩尻インターを降りる頃には雨が上がり、青空も見えてきた。インターからは30分ぐらいのところに朝日村はある。

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  雨上がりの朝日村は、落葉松の紅葉する山に霧がかかり幻想的な景色である。雨に洗われた道路や、畑、木々がなぜか新鮮に見える。遠く山々は紅葉が散り始めた木々と常緑樹の緑のコントラストがきれいに見えている。

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  朝日村のスキー場に向かう道路をまっすぐ進むと、民家が途切れるところに、 そばうち道場 「もえぎ野」 がある。店の入り口の右側がそばうち道場になっている。庭先のもみじを見ながら店内に入る。

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          そば処  「もえぎ野」

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  店内に入るとまだ開店したばかりなので、お客様は一人だけである。団体客が多いのか店内は広く、駐車場もたくさんの車が収容できるスペースがある。

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            お通しのひたし豆

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  恒例の とうじそばを注文する。そばつゆの入った鍋に野菜、鴨肉等の具を入れて、その鍋で、とおじかごを使っておそばをゆがいて、おわんにもって食べる。量的にも結構多いのでお腹は一杯になる。やはり新そばはおいしい。私の場合はそばに関しては別腹なので、いくらでもはいる。

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  柄のついた「とおじかご」と「 とおじそば」

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               そばがき

  かみさんが”そばがき”を知らないというので、食べることにした。量が多くこれももてあましてしまいそうである。砂糖醤油につけて食べるとおいしい。 窓辺にかざってある小さな黄色の花がお店の心つかいを感じさせる。

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  そばを食べながら、まどから遠く山々が見える。雨上がりの太陽の光に、どうだんつつじの赤い色が映える。

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  庭先のもみじが太陽の光を受けて真っ赤に燃えて、雲が去った青い空によく映える。もう紅葉は終わっただろうということで出かけてきたので、きれいなもみじが見られたことはうれしい限りである。

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  そばを食べ終わる頃には、すっかり雲もとれて青い空が一瞬、動く雲間に広がる。実をたくさんつけた柿の木のむこうにカラスが一羽止まっている。野鳥はカラスぐらいしか見ることができなかった。道路わきを流れる川も、昨夜からの雨でかなり増水して、濁った水が勢いよく流れている。

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  冬を待つ畑の向こうに落葉松林を見ながら、安曇野を抜けて、白馬の山を見ようと車を走らせる。雲がうまい具合にはれてくれると白馬三山が見えるだろうと淡い期待を持って向かう。

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        緑鮮やかな野菜畑と青い空

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            雨上がりの空と柿

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              雨上がりの雲

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  白馬の「道の駅」で忙しく動く雲に見える青空を見ながら、コーヒーを楽しむ。かみさんはケーキは別腹といいながら手作りケーキを注文している。柱にかかる草の花が素朴でうれしい。

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  白馬から白沢洞門を通って、鬼無里を抜け裾花峡谷を通り善光寺に向かう。あいにく雲が多く、白馬三山は見えなかった。この白沢洞門は鬼無里側から抜けてくると、トンネルの中から白馬の山々が正面にどーんと見える非常に景観のいいところである。特に春先は残雪の白馬と、桜の花のパノラマが見える絶好のビューポイントになっている。低気圧の通過の後で風もさわやかで、気候も暖かな良い一日であった。

七五三   府中大國魂神社を歩く

  甲州街道から旧甲州街道へ向かって、欅並木を歩くと正面に武蔵国府の杜大國魂神社が見えてくる。東京競馬場が近いのでレースがある日は道路はすごく混雑する。車でなく歩いたほうが懸命である。

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  この欅並木は、「馬場大門欅並木」といい、史跡名勝天然記念物になっている。約520メートルある。説明によると『源頼義、義家父子が奥州征伐の途中、当社に戦勝祈願をし、戦に勝って凱旋の時、御礼詣りのため欅千株を植えました。

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         源 義家公

  その後徳川家康が関が原、大阪の両役に際して、当社に戦勝を祈願し、且つ当社の馬市より、この両役に於ける軍馬を多く選出したので、両役の終了後、御礼のため又欅を補植して、この馬場を寄進しました。』とある。境内には厩跡などがあるのはそれかも知れない。

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  樹齢数百年と思われる欅の老木が立ち並ぶ、欅並木通りは見事である。おりしも七五三の季節で、家族で参拝の姿がたくさん見える。地元の人たちが多いのか、親子三代での宮参りが多く見受けられる。こういう光景を見ていると、少子化とはうそのように子供たちが多い。和服や洋装で着飾った、小さな紳士淑女たちの姿がまぶしく光る。将来が楽しみである。

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 武蔵総社といわれる、大國魂神社の由緒を見ると、『大國魂神社は大國魂の大神を武蔵の国の護り神として御祀りした社であります。この大神は、出雲の大国主神と御同神で、大昔武蔵の国を開かれて、人民に衣食住の道を教えられ、又医療法やまじないの術も授けられた御方で、俗に福神又は縁結びの神として著名な御方であります。

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  当社の創立は、景行天皇四十一年(111)(約1900年前)五月五日で、当時は武蔵国造が代々神社に奉仕しましたが、大化の改新によって、武蔵国府をこの地に置かれたので、国司が国造に代わって奉仕するようになり、管内神社の祭典を行う便宜上、武蔵の国中の神社を一ヶ所に集めてお祀りしました。これが武蔵総社といわれる起源であります。

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  なお左右の相殿に、国内著名の神社六社を合祀したので、六所宮と称せられるようになりました。

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  鎌倉幕府並びに北条・足利両氏も篤く崇敬しましたが、徳川家康が江戸に幕府を開くとともに殊に崇敬の誠尽くし、神領地五百石を寄附せられました。明治維新に準勅祭社となり、同七年県社に、同十八年官幣小社に列せられました。

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  当社は昔より崇敬者が非常に多く、武蔵国はもちろん関東一帯にわたり数十万におよび、毎年五月五日の例大祭には、夜間八基の神輿が古式の行列を整え、闇夜に御旅所へ渡御するので、俗に府中の 「暗闇祭り」 といわれ非常に賑わいました。現在では神輿渡御は夕刻六時より行われています。』と略誌が説明されている。

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  大鳥居から入る境内は広く、広い駐車場、図書館もある、入り口の近くには稲荷神社もあり、参道を歩を進めると随神門が見えてくる。随神門にはちょうど御酉様の季節なので大きな熊手が掛けてある。今年は二の酉までで十二日と二十四日がお酉様の日である。門をくぐり、相撲場、結婚式場、鼓楼などをみながら手水舎で水を使う。

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           鼓 楼  

  右手に宝物殿があり、五月五日の例大祭に渡御する神輿、大太鼓、御神宝類が展示されている。館内拝観は有料なので覗き込むだけにして、お祭りのときに見ることを楽しみに残しておくことにする。本殿の左右には、大酉神社、住吉神社、東照宮、巽神社、松尾神社、水神社などがあり、これも珍しいことである。

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          宝物殿

  今日は、日がいいのか結婚式が行われていた。古式豊な装束で参拝者が多い中での結婚式はさぞかし思い出深いものになるだろうと思う。末永く幸せに・・・。

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  また、境内では菊の花が展示されており、珍しい種類の花を観賞することができた。見事に咲き誇っているが、ここまで育てるのはかなりの時間と労力がかかっているのだろうと思われる作品ばかりである。

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             東京の地酒

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  身近にある神社であるが、境内に六社も神社があるとは知らなかった。初めて来てみていろいろなことを知ることができた。この次は東京の地酒を飲みながら、暗闇祭りの神輿渡御をぜひ、ゆっくりと見てみたいものだと思う。

多摩川散歩 鳥を見る

 ”天高く馬肥ゆる秋”といわれるように、空は青く秋の雲が空高く見える。秋の雲は非常に高いところに現れるのが特徴だが、いろいろな種類がある。

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  巻雲、通常すじ雲といわれるもの、巻積雲・・・うろこ雲、巻層雲・・・太陽や月にかさができる雲、中層雲・・・ひつじくも、高層雲・・・おぼろ雲などがあるが、青い空にきれいに見えるのが秋の空である。

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               チュウサギ

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               トビ

  久しぶりに多摩川の合流点付近を歩いてみた。すっかり白くなったススキの穂が風になびき、太陽の光を受けて銀色に光っている。

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  そのススキの穂の間からモズの姿が見える。この時期は自分の縄張り宣言をしているのか大きな声で鳴いている。比較的高いところから獲物を狙っている姿が目に留まる。

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                           モズ ♂ 

  低いところでは、ジョウビタキのペアーが秋の陽を楽しみながら、恋を語っているようである。近づくと、オスはさっと姿を消してしまったが、メスは警戒しながら土手を歩いている。まだ、里に来たばかりなので警戒心が強い。

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             ジョウビタキ♀

 川の向こう側には、カワセミが「チーチチッ」と鳴きながら飛び交っている。バックの景色のいいところに止まってくれないので残念である。ダイビングをして朝食をとっている。

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              カワセミ ♂

  下流に向かって河原を歩く、足元にはアメリカせんだんグサが実をつけていてこれが衣服にくっつく、子供の頃は「ばかがつく」といわれたものだ。一回りしてくるとあらゆるところにたくさんついている。これをとるのがまたたいへんであるが植物はこれで子孫繁栄をしているのである。

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              アオサギ

  河原のススキの茂みの中に、セイタカアワダチソウの黄色の花がたくさん咲いている。これは冬になり、枯れてくると、小鳥達の餌になる。カワラヒワ、ベニマシコなどが好んで食べる。

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               ジョウビタキ ♀

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            カワラヒワ

  朝の陽を浴びて河原の水際の石の上をキセキレイが歩いている。この辺ではキセキレイは比較的珍しい。ハキセキレイ、セグロセキレイなどが多いところである。

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             キセキレイ

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             セグロセキレイ

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              ハキセキレイ

  いつものコースで、多摩川と大栗川の合流点近くの浅瀬から川を渡り対岸の土手に向かう。いつも長靴をもっているのでどこでもわたることができる。

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               モズ 

  私が川を渡るのをみて、ここをわたるとどこに行くのか聞いてくる人がいるので、是政橋の手前までいくといったら、連れて行ってほしいということで道案内をすることになった。対岸の土手の藪の中を通って行く足場の悪いところである。

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  その人は、高尾山に登り、高幡不動から多摩川の土手を歩いて、登戸まで帰るところだということであった。毎週土曜日はこうして歩いているとの事で健康志向の人が多いのだと改めて認識した。

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 私は、鳥を撮りながら歩いているが、その人はウォーキングスタイルの運動靴なので川を渡るときは、はだしになり、ズボンをまくりあげて滑りやすい川の中をわたっていく。いつも思うのは、ここで転んだらカメラが台無しになってしまうなと考えながら足の踏み場を選んで歩く川の流れである。

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              アオサギ

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         合流点中州から関戸橋

 足元は竹や木の切り株に気をつけ、目の前は枝やくもの巣を払いのけながらの歩行である。途中おじさんの靴が脱げてしまったりしたが、何とか桜ヶ丘カントリーの崖の下を通り、川崎市の清掃工場を右上に見て、南武線の鉄橋のところまで行くことができた。是政橋は目の前なので、そこで別れて、また元来た道を引き返すことにした。

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一の関    直利庵のそばを食べる

  久々に岩手県の一ノ関に行った。朝の新幹線 「はやて」 はいつもなら一ノ関は止まらないが一日に何本か一ノ関に止まる車両がある。東京を九時十分に出ると11時25分に着く。

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  ちょうど昼時なので、そばを食べることにした。一ノ関では有名な 「直利庵」 ちょくりあんと読む。この辺には三店舗ぐらいあるが、駅の近くの駅前店に行くことにする。有名な蕎麦屋で、いつも満員なので心配していたが、まだ開店したばかりなので空いていたので安心した。

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 屋号、直利庵の由来について説明している。『その昔、当地方はいたるところに鉱山が多く、金、銀、その他いろいろの鉱石が産出されていた。

  慶長年間に至り、鉱山がだいぶ掘りつくされたので、新たに鉱脈探しが盛んに行われ、うまく掘り当たり良い鉱石が採出されると直利(なおり)といい、また非常に有望な鉱脈に当たれば、これを特に大直利(おおなおり)と称し、全山でお祝いをした縁起のいい言葉です。

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  また、庵の字義は 「いおり」 であるが蕎麦屋の庵は、江戸時代、浅草の金竜山浅草寺に属していた称住院というお寺があり、その寺内に道光庵というソバ屋があり庵主が蕎麦打ちが上手で評判となり、遠くからまで押しかけられ、それから道光庵ぐらい繁昌したなら蔵がたつという一層の商売繁昌を願う心から庵をつけるようになった。

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  当直利庵は明治十七年初代松井徳次郎が開業に際し、一ノ関の旧家大町熊谷清兵衛氏より命名していただいた屋号で、以前は直利庵(なおりあん)と呼ばれていたが、付時の頃ともなく直利庵(ちょくりあん)と呼ばれ広く皆様からご愛顧をいただいており、現在四代目にあたります。

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  古い蕎麦屋ですがいくどとなく水害にあっておりますが一生懸命ケッパッテ(頑張る)おりますから今後末永く御鞭声賜りますようお願い申しあげます。   庵主敬白』

  店の奥にはわんこそばの部屋があり、郷土の飾り物が雰囲気を作り蕎麦が美味しく食べられる構えである。

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  蕎麦が体に良いという薀蓄が書いてあった。『蕎麦を食べると、すぐおなかが空くといわれるのはなぜでしょうか?。

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  それは、そば粉の澱粉は他の穀類の澱粉よりジアスターゼによる消化が非常に早く、その上、水でも十分といわれるほど、糊化温度が低いからです。

  そのため、蕎麦は腹いっぱい食べても胃にもたれる感じが無く、すぐ消化吸収されるからです。

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 また、蕎麦は蛋白質をはじめ、カルシウム、カリウム、鉄等多くのミネラルを含んでおりますので、骨や血や筋肉を作るのに役立ち、お子様の成長促進に最適です。

  また、老化を防ぐビタミンEをはじめ血圧を下げるといわれるルチンも含まれていることが広く知られております。

 大切なあなた、ぜひ健康のためにお蕎麦をお召し上がりください。』 と言われなくても蕎麦好きな私はどこに行っても、必ず美味しそうな蕎麦屋に入ってみる。それぞれ地方によって蕎麦の打ち方やそば粉が違うのでこれもまた、現地で現地の気候で、現地の水で作った蕎麦が美味しいのである。

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 かまど神・・・・・一ノ関地方では古来、もろもろの災禍は火の災から起こると信じられ、火を焚く 「かまど」 の上に守り神として 「かまど神」 を祭り信仰してきた。

  かまどは日常生活で一日も欠かすことのできない貴重な生活の具であり、今でも分家することを 「かまど分け」 というほどである。皆様の無事故、無災害を祈ります。と駅のロビーに展示されていた。今日も無事一日が終わることに感謝しながらホームで新幹線を待つ。

奥多摩湖    小河内ダムを歩く

  秋晴れの午後、あまりの天気の良さに奥多摩に足が向く。スタートが遅いので日が暮れないうちに戻ろうと小河内ダムあたりを歩くことにした。

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  小河内貯水池の流域は、東京都奥多摩町ならびに山梨県小菅村、丹波山村お呼び甲州市の4市町村にまたがり、流域面積は約263平方キロメートルに及ぶ。

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  ダムの沿革説明によると次のようである。『小河内ダムの建設は、昭和13年に始まりましたが、戦争のため昭和18年10月に工事は中断を余儀なくされました。昭和23年9月に工事が再開され、昭和32年11月、945世帯の移転と87名の尊い犠牲の下、19年あまりの歳月と約150億円の総工費を持って完成しました。』

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  概要説明では、『小河内ダムは、東京都奥多摩町(都心から65キロメートル)にあって、標高530メートルに位置しています。

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  小河内ダムに蓄えられた水は、ダム直下の多摩川第一発電所(東京都交通局所管)で発電に利用後、多摩川に放流され、小作取水堰(下流約34キロメートル)と羽村取水堰(下流約36キロメートル)で水道原水として取水されます。

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  原水は。自然流下により村山貯水池、村山下貯水池、山口貯水池、玉川上水路などを経て、東村山浄水場および境浄水場へ、導水ポンプにより小作浄水場へ送られます。また、東村山浄水場から原水連絡管により朝霞浄水場および三園浄水場へも送ることができます。』 という説明がある。

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  大正15年に「大東京実現を予想し、水道100年の計画を・・・」と要望した東京市議会の決議が、小河内ダムの建設のきっかけだといわれている。当時の状況は想像しがたいが、東京都民の水源のほとんどは、ここから配水されているのだということを改めて理解した。

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                 トビ 

 小河内ダムの湖岸に沿って走る道路は、秋の陽を受けてまだ少し早い紅葉がきれいに映る。ダムの水はエメラルドグリーンに輝き周りの山の姿を写している。奥多摩湖に掛かる橋は、真っ赤に塗られた峰谷橋、黄色の麦山橋、グリーンとベージュの深山橋、シルバーメタリックの三頭橋などがありそれぞれが個性的でカラフルに色塗られている。

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               深山橋

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               麦山橋

  奥多摩湖には、対岸の管理並びに住民および観光客の渡湖用として、麦山(220m),留浦(212m)の二ヶ所に浮き橋がかかっている。この浮き橋は、ダム建設に伴い湖底に水没した対岸との通行路の代替として設置された。

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             ドラム缶橋

    秋川渓谷の奥の都民の森から三頭山の頂上を経てこのドラム缶橋にでてくるハイキングコースがある。三頭山からの眺めは奥多摩の山々を一望でき、これからの数週間は紅葉狩りの一番良い季節になる。

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  現在は、ポリエチレン・発泡スチロール製浮き子を使用している。以前はドラム缶の浮き子を使用していた。このことから通称ドラム缶橋と呼ばれている。ゆれる浮き橋を渡りながら、間近に湖が眺められる。歩くには浮いたり、沈んだりするので、足元はちょっと不安定になるがこれもまた楽しい。

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  また、湖岸の道路わきに鶴の湯温泉源泉という看板が掛かっている。鶴の湯温泉は、小河内ダム建設に伴って、湖底に沈むことになったが、ダム建設時に温泉引き揚げ施設を設けた。平成3年には施設を整備し、源泉をポンプにより汲み上げ、34年ぶりに鶴の湯温泉が復活したといわれている。

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  ダム展望台の方に向かっていくと、左手に奥多摩水と緑のふれあい館がある。奥多摩の豊な自然、水道の大切さを紹介しながら、水源地と水道を利用する都民との交流を図ることを目的としている。中には奥多摩の郷土芸能や郷土品が展示されている。昔なつかしい、脱穀機や鋤、くわ、籠、のこぎりなどが所狭しと並べられている。

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           吹き抜けに輝くオブジェ

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          奥多摩の歴史・文化

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  ダム展望塔の下を対岸に向かって歩くと、慰霊碑があって周りの木々の紅葉が夕日に透けてきれいに映っている。この慰霊碑はダム工事で亡くなった87名の尊い犠牲の上に存在しているのだということを改めて知った。ご冥福を祈りながら湖面の反射に輝く、色づいた木々の葉を観賞する。

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               慰霊碑

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  小河内ダムは、水道専用では、国内最大のダムであるという。貯水量は1億8,540立方メートル、東京ドーム約150杯分の水をためることができるといわれている。水は我々の生活には欠かせないものであるが、一方では水害等で多くの人命をも奪う。人体も65%は水分であるといわれている。この水と緑をを大切にして生きて行きたいと思う。

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  帰りの吉野街道沿いに美味しそうな蕎麦屋を見つけた。「そば処 きむら」 80歳になる女性がやっているところで、多摩川の流れを目の下に見るような崖のうえにある。30年間無休で商売をしていると話してくれたが、一言で年中無休というが大変なことだと思った。 「継続は力なり」というが、そばの味は、つゆがうまいしそばもそこそこに美味しく値段もてごろである。

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『藤原の時代も今も飛ぶ蜻蛉(とんぼ) 無心の世界につづくこの丘

この先に村なしという靄村(もやむら)に    昼の電灯灯りて雨降る   

                          木村靄村(あいそん)』

 『当店のそばは、岩手と青森の県境に横たわる階上岳(はしかみだけ)の麓で作られた優良そば粉を使用いたしております。

私のふるさと南部八戸地方は程よく靄のかかる、そばの育成には、最も適した良い気候に恵まれたところです。

その上、そば作りの水は、御岳の山水を使用致し、心をこめて作りましたものです。つゆは当店自慢の天然利尻昆布を主体にした、あっさりした味です。

うどんの特長は、麦踏をした地粉(しっこ)の味で、しこしことなんともいえない麦のうまさをだしております。

岩手のわんこそばも、ご注文に応じお作りしております。何杯もお替りするみちのくの醍醐味を味わいくださいませ。    店主敬白』 との案内状がある。

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  テーブルには御岳の山水がおかれていて自由に飲める。これもおいしい水である、この気遣いがうれしい。わんこそばも以前岩手県に行ったときに挑戦した。若い頃、昔は70杯食べた記憶がある。確か100杯食べたら新記録だといっていたような気がする。今度来たときはその記録に挑戦してみたいと思う。

  秋の陽はつるべ落としといわれるように夕暮れが早い。来週あたりは奥多摩も紅葉が真っ盛りになることだろう。

鹿児島    路面電車を見る

  鹿児島の日の出は東京より遅い、六時半ごろになって明るくなってきたので市内を散歩することにした。お日さまが出てくるとカラス、トビがたくさん飛んでいる。トビが電線にとまっている姿は珍しい光景である。

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  広い通りに出ると路面電車が頻繁に通過していく。路面電車の種類も近代的な車両からレトロ調車両までいろいろな電車が走っている。

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       天文館公園の人魚

  路面電車は、Tram,Tramway,Street Car と言われ、主に道路上に敷設された軌道を走行する電車のことを言う。現在の日本では約20ヶ所で路面電車が存在している。東京でも都電荒川線が早稲田と三ノ輪橋間で運行されている。

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  歴史を辿ると1879年にドイツの電気会社、シーメンスがベルリン博覧会でデモンストレーション走行させたのが始まりで、1881年にはベルリン郊外での運行が開始された。今では世界の約50カ国の約400都市に存在するといわれている。

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          高見馬場停留所付近

  最近のこうした軌道系交通が欧米で注目される背景には、市街地中心への人の流れを確保し振興する手段として、また環境破壊を防ぐ面から有意義であることが考えられるためである。

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             高見馬場電停

  日本でも戦前から戦後には、都市の重要な交通手段として機能していたが、1960年代の高度成長時代に自動車の所有率が増加すると、モータリゼーションの流れに押され路面電車は渋滞の元凶だとされ、1970年代末にかけて各地で廃止された。

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  私が子どもの頃は、「チンチン電車」 と言われ15円か20円ぐらいだった記憶がある。チンチン電車の由来は、車掌が運転士にあるいは運転士が車掌に合図を送るために鳴らした鐘の音からきている。

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  走行中電車が停留所に近づいたとき 「チン」 と一回ならせば 「降客があるため停車せよ」 または 「停車する」。 

 「チンチン」 と二回鳴らせば 「降客がないので通過しても良い」 または 「良い」 。さらに停車中に 「チンチン」 と二回鳴らした場合は 「乗降が済んだので発車しても良いか」 または 「良い」。

 「チンチンチン」 と三回ならした場合は 「直ちに停車せよ」 または 「停車する(非常停車)」。という意味で使用されていた。

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  鹿児島市の路面電車は、鹿児島市営で大人160円、子供80円の均一料金である。市民の足として重要なので、鹿児島市が民間の路面電車会社を買い上げて運営しているといわれている。

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  始発は6時五分で終発は22時37分ごろまであり、6分間隔で運行されている。第一系統と第二系統があり、第一系統は鹿児島市の鹿児島駅前を起点として高見馬場、交通局前、郡元、脇田を経由して25停留所9.4kmを走り谷山へ至る。

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  第二系統は同じく鹿児島駅前を起点とし高見馬場、九州新幹線の乗り入れる鹿児島中央駅前、唐湊を経由し12停留所3.7kmの走行で郡元へ至る路線である。

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             市民病院前電停 

  いろいろな記念日があるが 「路面電車の日」 というのもあるようであるが初耳である。1995年に広島市で開かれた第二回路面電車サミットにより、6月10日を路面電車の日に制定した。これは6=ろ(路面)、10=英語でテン(電車)という語呂あわせによるという。結構無理やり作っているような気もするが当日は何かイベントがあるらしい。

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  地下鉄の発達している東京ではあまり見ることができない路面電車が、地方では元気に忙しく利用されていることにある種の感動を覚え、早朝の通勤通学風景をしばし眺めていた。鹿児島の路面電車の軌道内はきれいな芝生で緑化され、花なども植えられてきれいに整備されている。地球温暖化問題のCO2削減には今後路面電車の活躍がおおいに期待されるところである。

鹿児島    黒豚を食べる

 鹿児島ではなんと言っても、薩摩切り子、桜島大根、薩摩揚げ、芋焼酎と黒豚が名物である。昼食に薩摩黒豚のとんかつが美味しい、行列のできるとんかつやといわれている 「黒かつ亭」 に寄ってみる。

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  キャベツ、ライスお替り自由のサービスは、若者にはありがたいことだが、我々の年代になると量より質になる。しかし、このお店はこの両方を満たしてくれるからありがたい。これで900円、お手ごろ価格である。

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  洗面所の中に、徳川家康の言葉がかけてあった。 「人の一生は、重い荷物を背負って遠き道を行くが如し、急ぐべからず。」 最近のスローライフを象徴しているようである。グローバルな社会になって、ビジネスも時間が勝負を決めるようになってきているが、こういう考え方も必要かと思う。

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  鹿児島の駅ビルにはなぜか大きな観覧車がある。アミュプラザ鹿児島で鹿児島最大の規模のレストラン街があるという。さらに駅前には 「若き薩摩の群像」 がみえる。1865年、薩摩藩が密かに派遣した英国留学生達の像である。一行の留学体験は、後の日本近代化に大きく生かされたと聞く。

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       若き薩摩の群像 

  甲突川を渡り、城山公園に向かう途中に鶴丸城跡がある。 「薩摩では人をもって城となす」 のの言葉通り、天守閣のない屋形造りの城である。古い石垣や堀の風情に江戸の昔がしのばれる。

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               鶴丸城跡

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           古い石垣に生える木

  左に曲がり、城山展望台への上り坂の入り口に 「薩摩義士碑」 がある。江戸時代、幕府から課せられた難題で木曽三川(岐阜県)の治水工事を行った際、自決や労死した人々を義士とたたえる記念碑である。

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            薩摩義士碑

  城山展望台では、桜島と鹿児島市内を一望できる、桜島が最も美しく見えるポイントであるが、今日はあいにく雲が多く桜島は良く見えない。城山周辺には西南戦争最後の激戦地が数多く残っている。西南戦争の銃弾跡、西郷隆盛終焉の地、西郷隆盛洞窟など。今では、城山には大きなホテルがあり最高のビュウーポイントになっている。今度来るときはこのホテルに泊まることにする。

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              桜島遠景

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          樹齢?年 

  城山公園には、樹齢数百年といわれるような木がたくさんあり、またそこには必ずお地蔵様がきれいな花と共に座っている。

  鹿児島最大の繁華街・天文館に泊まる。東京で言えば新宿歌舞伎町、千葉では栄町、仙台の国分町といったところである。人口60万人の都市にしてはにぎやかである。聞くところによると、街を歩いている人は多いが店の中は閑古鳥だよといっていた。

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  天文館とは、江戸時代、この地に薩摩藩の天文観測所 「明時館」 があったことが名前の由来で、現在は南九州一の繁華街といわれて賑わっている。

  精肉店が経営している、安くて旨い店といって紹介された、黒豚しゃぶしゃぶ・すき焼きの 「梵道留」 という店に入った。お奨めの鹿児島が誇る黒豚の最高峰、六白黒豚のしゃぶしゃぶを注文する。

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  お店のおかみさんの説明によると、限られた生産者のみが手塩にかけて育てた最高の肉質を誇る 「六白黒豚」 だという。六白黒豚とは、鼻と両手(足?)、両足と尻尾が白い黒豚だということである。今度、豚と逢う機会があったら良く見てみようと思う。

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  確かにやわらかくて美味しい。口の中でさらりと溶ける脂身がうまさを引き立てている。そうかといって高いかというと、値段も手ごろである。セットで一人前1,575円也、野菜と他の料理三品付きで価値がある。本格いも焼酎 「木挽」 でグラスが進み、お替りをしてしまった。

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  満足して夜の街を歩くと、らーめん街があり、らーめんのスープの香りが店の方向に足を向けさせる。鹿児島らーめんの美味しいところはどこ?、と呼び込みのお兄さんに聞くと、すべて美味しいが、豚トロらーめんがいいよと店を教えてくれた。

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          鹿児島らーめん 「豚とろ」

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         必ずおしんこが付く  650円也 

  本当に、らーめんに入っているチャーシュウが口の中でとろけるようである。何でもそうだが各地の名物は、その地の気候風土で育ったものなので、その地で食べたり、飲んだりするのが一番美味しい食べ方なのだろうと思う。この次は、おはら祭りを見ながら、かみさんを連れてきてあげよう。 

 鹿児島     桜島を歩く

  鹿児島は西郷さんと桜島、最近は篤姫が有名である。桜島へはフェリーが24時間出ている、乗船時間は約15分、早起きをして桜島に渡る。

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  篤姫も眺めていた、鹿児島のシンボル・桜島。篤姫が輿入れする際、桜島を描いた掛け軸を持参したといわれている。あいにく朝が早いので山はガスに曇っていて、噴煙は良く見えないが目を凝らしてみると煙が上がっているのが見える。

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  湯之平展望所(海抜373m)からは溶岩原を眺められる。また目の前に錦江湾をみて対岸に鹿児島の街並が見える。周りの木の葉、道路は噴煙の影響で真っ白である。この辺に住んでいる人は洗濯物が大変だといっていた。灰が飛んでくると、洗濯物を家の中に入れるのだが、出したまま外出をすると洗濯物は灰だらけになってしまうらしい。

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  桜島は北岳と南岳という大きな二つの火山が合わさってできた火山である。誕生から約5、000年前までは北岳だけがあった。その後今から約4,500年前の噴火によって南岳が生まれ、現在のような形になった。北岳の火口は今は休止してふさがっている。現在、活動中で噴煙を上げているのは、南岳の火口である。

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  大正溶岩原と植生遷移・・・・・『1914年(大正3年)1月12日に噴火が始まり、その後約一ヶ月間にわたって頻繁に爆発が繰り返され多量の溶岩が流失した。溶岩流は桜島の西側および南東側の海上に伸び、それまで海で隔てられていた桜島と大隈半島が陸続きになった。溶岩が流れてできた土地(溶岩原)は最初は岩だらけだったが、長い年月を経て、植物が徐々に生えて森林を形成していく、これを植生遷移と呼んでいる。』 と説明がある。

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  今でも毎日噴煙を上げている桜島、年間で三百数十回の噴煙があがると聞く。ほとんど毎日噴火しているということらしい。売店のお姉さんに聞くと、山が直接見えないので、お客さんがいつも爆発を教えてくれるといっていた。

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             南岳噴火の瞬間(売店写真より)

  桜島は阿蘇山や浅間山・三原山と並んで日本の代表的活火山の一つで、周囲が52km、面積が80k㎡ある。山は北岳(海抜1,117m)・中岳(1,060m)・南岳(1,040m)からなり、うち南岳は今も噴煙を上げその爆発音が響くことがある。その火山活動のエネルギーでは日本最大であろうといわれ、そのため南岳の火口より2km以内は立ち入り禁止になっている。

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  桜島の噴火の歴史は有史以来30数回をかぞえ、中でも文明(1476年)、安永(1779年)、大正(1914年)、昭和(1946年)の噴火が大規模でいずれも溶岩の流失が見られた。中でも大正3年1月12日に始まる噴火は世界的に有名で噴煙は8,000mの上空に達し、遠くカムチャッカ半島まで降灰があったといわれている。

  あいにく噴煙は、きれいに見えなかったが、このフェリーは便利である。地元の人は通勤、通学に使っている。鹿児島市の運営で15分おきにでることと、24時間営業というのがすばらしい。九時には鹿児島市内に戻り仕事ができるという便利さである。

Glover Garden 長崎の山手を歩く

  グラバー園に向かう坂道で鐘の音を聴いた。時間を見るとちょうど12時なので、これがあの”長崎の鐘”なのかと思った。なかなか情緒がある。

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  グラバー園の案内によると次のようである、『遠くスコットランドから渡来したトーマス・ブレーク・グラバーが、南山手の丘に住まいを建設したのは1863年のこと。当時長崎の街は、日本の新しい夜明けを夢見る人々の熱気で溢れていました。

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  遠く大洋の波濤を超え、夢を抱いてやってくる異国の商人たち、倒幕の野望に燃える幕末の志士たちや、西洋の学問を志す日本の若者たち。

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  あれから100年以上経った今も、ここにはグラバーたちが暮らした当時の記憶が、共に長崎を愛し長崎に暮らした貿易商たちの邸宅が、形を変えることなく残されています。』

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  以前に来たときは急な坂道をずいぶんと登った記憶があるが、入り口を入るとどこにもエスカレーターや動く歩道があり、人にやさしいグラバー園になっている。本当にありがたいことであるが健康のため歩くことにする。

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               ツルさんの部屋 

  旧グラバー亭から見ることにする。これは国指定の重要文化財になっている。1863年に建てられた、日本最古の木造西洋風建築であり、正面玄関を設けないクローバー型の建築は南国のバンガローをイメージさせている。住宅内には、グラバーさんと妻ツルさんの写真、犬の彫刻が施され愛用のステッキ等が展示されている。当時の生活スタイルがしのばれる。

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            トーマス・ブレーク・グラバー

  また、当時の応接間や調度品がそのまま展示されておりノスタルジックな感傷に浸れる。長崎港が眼下に見下ろせロケーションのいいところである。私は山育ちなので、こういう海が見える風景は大好きである。

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  そのほかには旧ウォーカー住宅、旧リンガー住宅、旧オルト住宅、旧スチイル記念学校など異国の商人、実業家の建てた建物がきれいに保存されている。異国情緒を感じるグラバーガーデンである。

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  一番高台にある旧三菱第二ドックハウスのベランダからの長崎の街、海はすばらしい眺めである。 「ドックハウス」 とは修理のために船が造船所に入っている間、乗り組み員たちが宿泊した施設である。明治29年に作られた典型的な西洋建物で上下のベランダを8本の柱が支えている。目の前には池があり、きれいな色取りの錦鯉がゆっくりと泳いでいる。

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            旧三菱第二ドックハウス

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  この第二ドックハウスへの入り口の脇に外国人居留地の境界と書いた石柱がある。これはかつて居留地の境を示していた石柱を集めたものである。また、その横には三菱で使用していた大きな鉄の錨(Stock Anchor)が数個おいてある。これも長崎の歴史を物語るものたちである。

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  ここの展望広場からは、長崎造船所のドックや係留中の船などが見える。青い船、赤い船などと一緒に、イージス艦らしきものも見える。軍国主義の時代には海軍の強い日本の造船所のある長崎と広島が攻撃の的になってしまった。この悲惨な体験を活かして日本から世界平和、核廃絶を訴えていくべきだとつくづく思う。

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               造船所風景

  歴史の泉、祈りの泉などを眺めながら坂道を下ると、プッチーニ像があり、三浦環像が並んでいる。世界三大オペラにも数えられる長崎を舞台にした歌劇マダム・バタフライ(蝶々夫人)である。この園内にはオペラを作曲したジャコモ・プッチーニとマダム・バタフライを演じて世界的に有名にした三浦環の像が立っている。

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                 歴史の泉

  歴史の泉は有田焼の陶板モザイクをはめ込んだ壁泉である。

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  この園内にはいろいろ楽しみなものがたくさんある。ハート型の敷石を踏めば幸せになるとか・・・・ハート型の敷石にさわると恋がかなうとか、2つ見つけると良いことがあるとかいろいろな説があるようである。グラバー亭の方位を示す案内板の下に一つはあるらしいが、今度ゆっくりとその幸せの石を探しに訪ねてみたいと思う。

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  日本で最初のアスファルト道路、明治時代の水道共用栓、西洋料理発祥の地など見所いっぱいである。西洋料理がどんなかたちではいってきて、どのように日本に定着していったのかも、ゆっくりとみてみたいと思う。やはり歴史を観るには時間を十分とるべきである。

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           西洋料理発祥の碑

  聞くところによると、ポルトガルやオランダの影響を受けて早くから西洋料理が普及した。坂本龍馬が愛した西洋料理 「良林亭」 が有名だといわれている。この次はぜひ、長崎で”ちゃんぽん”ではなく、おいしい西洋料理をたべてみたいものである。

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         旧ウォーカー住宅(今はレトロ写真館)

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             グラバー亭入り口

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               ブーゲンビリア

  昼休みの一時間ぐらいの間ではあったが、日本の近代化、日本の新しい時代への扉を開いた人々の生活に触れることができ、ノスタルジックな時間を楽しむことができた。真っ青な秋の空にブーゲンビリアの赤い花がきれいに映えていた。またゆっくりと時間をとって訪れてみたいと思いながら、仕事に向かうため、足早に長崎の山手を後にした。

カステラとキリシタン   坂の街長崎を歩く    

  長崎はカステラの街、坂と山が多いというのが第一印象である。グラバーガーデンへ向かう坂道から見る長崎の街は、山の上まで家が建っている感じがする。

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  大浦天主堂に向かう坂道を歩いていると、途中に童話館というのがあり、入り口の門の前で猫がのんびりと昼寝をしていた。暖かな昼下がりである。

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  さらに行くと左手にカステラ神社というのがあった。なぜか階段が下に下がっており、鳥居もそれに倣って下に下がっている。その先には文明堂本店という建物があり、カステラの由来が書いてある。文明堂といえば東京でもカステラで有名fだが、発祥の地はここ長崎であるらしい。

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  説明には次のように書いてあった。『カステラの由来・・・・・カステラの由来はCASTILLAという十六世紀にスペインにあった王国の名が語源です。その地方でよく食べられていたお菓子でいつの間にか国名が菓子の呼び名になったのだと考えられています。長崎へは天正(1573年~1591年)の頃に渡来したとされています。

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  文明堂総本店の創始者中川安五郎は、この異国の風味、カステラを長崎の銘菓に育てようと決心し古老のもとを訪ね、古文献、古記録を調べ厳しい原料の選択と古い製法を活用し、遂に他の追随を許さぬカステラ作りの技法を大成して、長崎の地に文明堂総本店を創業しました。

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  その伝統の技法は代々継承され、総本店として、カステラ発祥の地長崎ならではの独自の味造りを続けています。カステラの底に甘いざらめ糖を残す長崎カステラの特徴をぜひ、ご賞味ください。  文明堂総本店 』 と説明している。

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  坂の上を見上げると、大浦天主堂のクロスが見える。この天主堂は、文久三年(1863)12月着工し、元治元年(1864)12月に竣工した。設計者はフランス人宣教師フュ-レ神父で、建築者は小山秀、中世紀建築の代表であるゴチック式である。

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  正式名称は日本二十六聖殉教者天主堂といわれ、本天主堂に於いて浦上旧キリシタンの子孫が発見された。日本にある天主堂の中では最古のものであるといわれている。

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  浦上天主堂を後にさらに坂を上ると旧羅典神学校がある。これは、『明治六年(1873)キリシタン禁教が停止となり、各地に配流されていた浦上村の信徒が釈放されたのを契機として、大浦天主堂のプチジャン神父は神学校の設立を計画し、明治八年(1875)に完成。

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 館内撮影は禁止なので外からのステンドグラス  

  設計と監督にあたったのはドロ神父。わが国初期の木骨煉瓦造り。大正十五年(1926)までラテン神学校校舎兼宿舎として使用。以後司祭館や集会所にも使用され、この間若干の一部改造があった。』 と長崎市教育委員会の説明がある。

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             旧羅典(らてん)神学校

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            大浦天主堂

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  日本の新しい夜明けを夢見る若者達、異国の商人たち、キリスト教を布教する神父たちと、西洋の学問を志す幕末の若者がこの坂の上から遠く大洋を眺めていたのだろうかと思いをめぐらす。キリシタンの迫害による隠れキリシタンの苦悩と救いを思うとき、長崎の哀しい歴史と祈りの姿が脳裏をかすめる。

長崎中華街   長崎ちゃんぽんを食べる

  十数年ぶりに長崎空港に降りる。以前来たのはハウステンボスにあるジャックニクラウス監修のゴルフコースに来たときである。各ホールごとのスイングをビデオに納めてくれたのを覚えている。今でもそのビデオはあるが、あまり見る気はしない。

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          冠雪の富士山が見える(羽田空港) 

  長崎空港は大村湾に浮かぶ箕島を埋め立てた世界初の海上空港として、昭和50年に開港した空港である。今でもその名残の山が滑走路の端のほうに見える。

  箕島は、大村湾内に浮かぶ面積90万㎡、周囲7kmの小島で13世帯66人が暮らしていたが空港建設建設のため移転に合意し、昭和47年から建設工事を開始、約3年の期間と180億円の建設費を投じて、役154万㎡の用地を造成した。また、本土との間に長さ970mの箕島大橋を建設した。といわれている。

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  ちょうど昼時なので、長崎新地中華街で本場の”長崎ちゃんぽん”を食べることにした。入り口にある 「江山楼」 が美味しいというので入った。時間が早いせいかまだ席は空いていた。若い女性が全員和服姿で応対してくれる。話によると昼時は満員でなかなか入れないというのでラッキーであった。

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  お奨めの上ちゃんぽんをたのむ、金1000円也、スープが美味しい、とんこつスープが野菜と麺とうまく絡みなかなかの味である。

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  満足の後、中華街をぶらぶらすると、カステラの美味しい店があるというので覗いてみる。「和三盆焼き」 というのが評判らしい、あいにく限定販売で売り切れとのこと。カットカステラならあるというので、話の種に買ってみることにした。一個200円也、ちょっと高い気もするが・・・。

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  底のほうにざらめが入った、スポンジのきめが細かく甘さ手ごろなカステラである。これもなかなかいける。

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  中華街は小さな街ではあるが東西南北に歩けるようになっている。中央の入り口の前には、湊公園と書かれた大きな門があり広場になっている。まわりの木々はもう紅葉が始まっていた。

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  その道路を挟んで、店の前に釣鐘が下がった釣鐘堂薬局というのがあった。道路わきの説明板によると、 『湊公園は、かつて長崎港へと続く河口だったところで、昭和初期に埋めたてられ、昭和32年(1957)に公園として整備されました。

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  現在は、中国の旧正月に合わせて開催される冬の風物詩、長崎ランタンフェスティバルのメイン会場として利用されています。

  釣鐘堂薬局については、当事は、商標の釣鐘を船やリヤカーに乗せて行商していたそうで、この付近には小船が停泊していました。

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  道向こうの長崎新地中華街一帯は江戸時代 「新地蔵所」(しんちくらしょ)と呼ばれた場所で、唐船の荷物を収納する土蔵があり、こちら側(南側)には荷物の荷役に際して開かれる4つの水門がありました。』 と書かれている。

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  お客様とのアポイントメントは午後からなので、それまでのあいた時間に地元の美味しい食べ物と、歴史を辿ることができるということは一石二鳥のこの上ない喜びである。

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