野鳥たち

  • オオソリハシシギ
    野鳥たちの表情を表現できればと思っていますがショットが精一杯。

花たち

  • 姫扇
    気の向くままの足跡を紹介します

風景

  • 常陸海浜公園
    一期一会の心に残る風景

淡島の一日

  • 淡島から見るサンセット
    奈良の帰りに淡島に一泊。夕日と富士山がきれい。露天風呂から正面に富士山が見える。

四国・四万十川の旅

  • 金比羅宮
    2008年5月の連休の四国四万十川の旅

« 恋人坂  会津盆地を眺める | トップページ | 達沢不動滝   猛暑に涼を求めて »

保科正之公の墓  土津神社を歩く

保科正之公の墓は、猪苗代湖を見下ろす猪苗代町の見禰山にある。水量豊富な水路の石橋を渡ると大きな白い鳥居がある。赤い鳥居は当たり前であるが、白い鳥居は珍しい。

2010_09_05__8920

           土津神社

保科正之については、「伊那高遠の地が育てた、歴史上の巨人、名君保科正之公」と会津における名君の誉れが高い。

2010_09_05__8923

                白い大鳥居

詳細は神社の資料によると、『江戸時代のはじめに二代将軍徳川秀忠のご落胤 (隠し子のこと。徳川家康の孫にあたる) として生まれ、7歳のときに保科家の養子となって信州高遠にきました。

2010_09_05__8899_edited1_2

                神水が蛙にかかる

成人して三代将軍家光の異母弟と知られるようになり、26歳で出羽の国最上(山形)藩20万石の大大名となってこの地を去るまで高遠城に暮らしました。

2010_09_05__8914

            拝殿

 人格形成の基礎となる少・青年期の19年間を高遠で過ごした正之は、その後、会津藩23万石の藩主に出世しましたが、常に思いやりと慈しみをもった民に優しい政治は、正之のふるさとである高遠藩でつちかわれたのです。

2010_09_05__8905_edited1

                霊神之碑

亀石に乗った正之公の亀趺(きふ)碑、高さ4.54m、幅1.83m、1.51m、日本最大の顕彰碑といわれている。碑文の文字数は1934文字で、亀は墓地のある北を向いている。亀は中国では古くから北を守る聖獣といわれている。最初は南をむいておかれていたが一夜にして猪苗代湖まで這い出してしまったとか。

正之は幼い四代将軍家綱の後見人としてその時代の舵取りをした日本のリーダーでした。』という説明がある。

2010_09_05__8912

八社(岩彦、信彦、久彦、幸彦、石彦、忠彦、進功霊社、五社神社)

そもそも保科氏の祖先をたどると、その発祥の地は長野市若穂保科にあるといわれている。平安時代中期諏訪神系の保科行遠が当地方に占居して其所領として子孫繁栄の基となった。

2010_09_05__8941_edited1

                奥の院への参道

保科家は代々弾正忠と称し、正則の代に伊那の高遠に移った。正則の息子には正俊と正保があり、正俊の息子正直は徳川家康の異母妹を妻として信頼されていた。また、正保は正則が高遠へ移った後も保科に止まり、村を治めその子孫は真田候に仕えて繁栄した。

2010_09_05__8928

             奥の院

保科にある広徳寺は保科正利(正則の父親)が開基したといわれている。戦国時代に保科七騎といわれた名将は、保科正則を筆頭として、玉井甚市、堀内土佐、山崎刀悦、轟玄蕃、海谷与五右ヱ門、久保保正で共に武田氏に仕えた。

2010_09_05__8933_edited1

             保科正之の墓前

久保保正の子に保国という者があり、豊臣秀吉に仕え、秀次自刃のとき殉死したといわれ、父保正は子保国のために一寺を創立した。これが延命寺である。我が生家の菩提寺となっている。ここを訪れることになったのも何かの因縁だろうか。

2010_09_05__8937_edited1

               八角形の墓石

歴史をたどるのは楽しいものである、土津神社の「土津」を”はにつ”と読むのはなかなか難しい。土津の意味は、土(つち、はに)は宇宙構成要素の根本であり、万物の始めと終わりであり、信実の主体である。「津」は会津の領主であるから「土津」とつけたといわれている。正之は神道を尊崇し、生前に土津の霊号を授けられていたという。

2010_09_05__8913

          白い大鳥居を拝殿から見る(右 社務所)

言い換えると、宇宙の万里を究められた会津藩主の意ということである。土津神社は、神殿・回廊など奥日光、東北の日光といわれるほど荘厳壮麗であったが明治の戊辰戦争で焼失した。今の社殿は明治13年(1880)7月に建てられたものである。

2010_09_05__8921

常に控えめで実直な正之は、その生き様は「知足の人」(境遇に不満を持たず、自らはすべてに足りていると悟っている様)といわれていた。私利私欲のはびこる今の世の中こそ、保科正之のような指導者に日本の舵取りをして欲しいものだと思う。

« 恋人坂  会津盆地を眺める | トップページ | 達沢不動滝   猛暑に涼を求めて »

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 保科正之公の墓  土津神社を歩く:

« 恋人坂  会津盆地を眺める | トップページ | 達沢不動滝   猛暑に涼を求めて »